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所詮、民主党も自民党も同じ穴のムジナ、国民の生活や苦悩など何処吹く風の連中なのだ。 この茶番のドサクサに官僚たちが権力搾取に蠢いてることも知らず。 例えば厚生労働省は・・・日本中の職場の禁煙化を勧めているのだ。 その為に労働安全衛生法の改正案を準備している。 禁煙を法律で決め付けようとしているのだ。 喫煙者の人権も煙草販売者の生活も無視した暴挙を平然と行おうとしている。 大体、合法的な喫煙を強権発動で封じ込めようとしているのだ。 この禁煙を法制化したら、間違いなく次は禁酒の法制化だろう。 世界保健機構が酒の広告と販売の規制に乗り出そうとしている。 厚生労働省はきっとその尻馬に乗るだろう。 冗談で言っているのではない。 現にイギリスではすでにこの法律が機能し公園や海辺で缶ビールなど飲もうものなら警察にしょっ引かれる。 断っておくがボクは酒も煙草もやらない。 自分のご都合で厚生労働省に難癖をつけているのではない。 民主主義を標榜する先進国は所詮、権力を絶えず増強させなければ統治できないのだ。これが民主主義のリスクかもしれないとボクは感じている。 民主主義はこのように異端の人間を排除する。 最近は喫煙者も少数派になりつつあり、異端者扱いされてきた。 だから排除するのだ。 異端を排除したら、その国の文化は死滅するだろう。 異論を排斥したら、社会の民度は低迷する。 今やこの国は皆で決めたことは正しいのだ。 この国の人民は赤信号も皆で渡れば怖くなくなっている。 この危険な国民体質が多くの冤罪事件をさえ助長している。 だから裁判員裁判は危険なのだ。 そんな国民を作っているのが、権力しか見ていない政治家連中であり、官僚でありその腰巾着と化したジャーナリズムである。 連日行われている国民無視の政治茶番と官僚権力の蠢き・・・ そのプロパガンダと化したマスコミ。 国家や資本家の勝者の論理のみが最優先され、庶民たちの尊厳は踏みにじられている。 この国は大崩落に向けて突き進んでいる。 それを不自然に感じない人は死んだほうが良い。 未来の子供たちの悲惨な生活を見ないで済むから。 不自然に感じる人は闘いを挑め。
これは正確には引退させられたのであり、日本相撲協会理事会の暴挙である。 せっかく貴乃花理事の初参加の理事会でこんな結論をだすとは・・。 結局、貴乃花も裏取引で票を集めての当選と言われてもしかたがない。悪く言えば談合があったのだと思う。 貴乃花を英雄扱いするのは間違いだ。 さて、朝青龍問題であるが、これは相撲協会と横綱審議委員会とマスコミによる明らかな人種差別であり、人権侵害だ。 今回の問題はまだ、朝青龍が殴ったと言う証拠はなにもない。 たかだか酔っ払いたちが悪ふざけした上での怪我じゃ無いのか・・・とボクは思う。 冤罪の可能性だってまだあるのだ。 それは横綱の品格の問題だと、バカなことを後生大事にのたまう似非知識人やマスコミ人も掃いて捨てたいほどいる。 品格?・・今の相撲の何処に品格があるのだ? 懸賞金と称する金を賭けて勝ち負けを争い、勝ったらその金を鷲づかみする相撲取りの何処に品格があるのだ? タニマチと称するスポンサーに纏わり付き金品を頂くだけの「ごっつ あん体質」の何処に品格があるというのだ? 協会の理事達に品格があるか? 相撲の勝負も知らない横綱審議委員のおっさん、おばさんに品格を感じたことがあるだろうか? 相撲が日本の伝統文化だったのは、ワンスアポナタイム昔々のお話である。 相撲は日本の神道に発した武道である。 横綱は八百万の神の一柱であり、だからこそ注連縄を付けているのだ。 その日本の神の座にキリスト教徒やイスラム教徒や仏教徒をつけても平然としている輩たちには分るまい。 国技であった相撲に外国人を入れた時に、相撲道は終焉し国技ではなくなった。 単なる裸の男たちの格闘技である。 民主党政府は直ちに相撲協会の財団法人認可を取り消すべきである。 落ち着いて考えれば、現在の相撲なんてこんなものである。 そこでやんちゃな朝青龍がなにをしたというのか? 朝青龍こそ潰れかかった相撲人気を支え続けた大功労者じゃないのか。彼がいたからこそつまらない相撲が何とか持ちこたえたのだ。 相撲協会こそ彼に感謝し、それなりの恩を返すべきである。 そして理事会と横綱審議委員たちこそ直ちに引退するべきだ。 早くしないと、この愚挙は国際問題にもなりかねない。 どう見ても、今回の決定は人種差別がチラチラ垣間見えるのだ。 モンゴル人は協会内で相当な虐めと差別を受けているのだろう。 今日、この問題で記者会見をした白鵬が涙を流す姿には非常な違和感を感じたのはボクだけではないだろう。 本日のこの不自然な出来事は日本人として大変に恥ずかしいことだと感じたのである。 ボクは前からここでも言い続けてきたが朝青龍が大好きなんだ。
大勢の方々からお叱りを頂き、感謝の念を持って再会いたします。 休んだ訳は簡単で、心に感じた「よしなしごと」を散漫に書き繕う事に嫌気が挿したのです。 バカなアイドルやタレントがブログと称して、てめえが食ったものなどを写真と共に書いている日記もどきと何ら変わらぬ己の姿が恥ずかしくなった訳です。 で、この一年はテーマを明確にして書いてみたいと考えました。 昨年から毎週末、日本中の神社を訪ね歩き、国とは何か?日本人とは何か?ボクとは何か?を見詰めてまいりました。 そして今、ボクに必要な…いや日本人に必要な思考の尺度はこれなんだ!と思い及んだのです。 「それは自然・不自然」と言うモノサシ・・・。 これこそ地球上でも日本人だけが持ち合わせている日本人固有のモノサシであり、感性であり、判断基準なのです。 今、この時代に起きている全ての出来事はこのモノサシで計れば、明確に判断がつきます。 政治、経済、事件、身の回りの雑事など全てに応用できます。 神代の時代から大自然と共に生きてきた日本人だからこそ持つ固有のこの感覚を蘇らせたいのです。 そこでまず、ボクが率先して「自然・不自然」のモノサシで様々な事柄を計ってみます。 題して、ニッポンの「不自然大全集」 その1は・・・ いつも大晦日の夜になると、不自然さに猛烈に腹が立つもの。 NHK紅白歌合戦です。 いや、唄ってる能天気な歌手達には罪はありません。 とんでもない輩たちは、NHKの職員・放送スタッフなのです。 何が不自然かってまず最悪は、毎回番組のエンディングで全歌手が唄う「蛍の光」です。 なんの為にあの場で超不自然な歌を唄うのか? 多分、日常エリート風を吹かせているNHK職員も経営陣も偉そうな番組審議委員のとっつあん方も、あの歌の出所を知らないのです。 「蛍の光」は明治初期に、イングランドの曲に作詞者不肖の詞をつけたものです。 作詞者が軍に加担するのが嫌で、名を隠したの為に作詞者不肖です。 何のために・・・それは北方領土や南方領土拡大の為に続々と若き兵士を送り込む為の軍歌なのです。 一番は国の為に死を賭して出兵する若者達を見送る内容です。 二番、三番と見送る情景が続き、四番の歌詞になると具体的になります。書いてみましょうか・・・。 千島の奥も 沖縄も 八島の内の 守りなり いたらん 国に いさおしく つとめよ わがせ つつがなく と言う、ものすごい軍歌であります。 この「蛍の光」を誰が何の為に大晦日に唄わせているのか、公開質問状でも出して聞きたいものです。 もっとも訳を知っている奴の差し金か、番組では四番は絶対に唄いません。 はやく何とかしないと、今年も卒業式などでも子供達に強制的にこの軍歌を唄わせてしまうことになります。 まぁボクは軍歌が好きだから良いんだけれどね。 更に、NHK関係者のみならず左翼的思想の有識者諸君にも聞きたい。 常日頃、日の丸は日本国国旗にあらずとか言ってらっしゃるが、あの 「紅白歌合戦」と称して紅組・白組に分かれての闘いには疑問を感じないのでしょうか? 紅白こそ、日本人を真っ二つに分断し、血を血で洗った源平両軍の闘いの御旗であったはず。 その悲惨な闘いの象徴である紅白は問題なく、何故に日の丸は問題なのか? この不自然さ、ボクにはさっぱり分らないのであります。
中でも一躍時の人になってしまったのが蓮舫議員である。 本来政治家は核心となる言葉を控えるのが性であるが、蓮舫議員は歯に衣きせぬと言うか、無邪気さというか、まぁ大陸の血も混じってる人だから少々日本人にはないアグレッシブな精神の持ち主ではある。 そんなことを輝く時の人に言うのは失礼かもしれないが、彼女とは昔馴染みなので許してくれるだろう。 蓮舫とは彼女がクラリオンのキャンペーンガールとして水着のピチピチボディを振りまいていた後、俺が担当したテレビ朝日の深夜の生放送「プレステージ」のキャスターに起用したのが最初である。 まだ碌にコメントも言えない女の子であったが、向こうッ気だけは強くて、どんなテーマ、どんなゲストでも物怖じしなかった。 それと甲乙・白黒ははっきりさせるのが好きな子であった。 このキャスターを始めて確か1年位後だったと思う。 蓮舫が所属する川崎エージェンシーの社長から、今後どのように進んだら良いかの相談を受けた。 そこで六本木のクローバーで蓮舫とお茶を飲みながら、彼女の今後について語り合ったことがある。 その時、俺はこう言った。 これからは自分だけの人生テーマを持つこと・・・例えば今後大問題になるであろう食品添加物、あるいは飲料水問題などは女性として良いと思うよ・・・なんてことをアドバイスした。 蓮舫は素直に聞く子で、それ以後キャスターとしてのコメントががらっと変化してきた。 機を見るに敏・・・かなり器用でフットワークは良いのである。 その彼女が結婚し、双子を生んでから子育てに人生テーマをシフトし、議員になって遂には時の人になった。 別に俺がどうこうした訳じゃないが、昔馴染みとしては、なんだか嬉しいのである。 でも若い時から敵を沢山作ってしまう性質の子だったのが少々杞憂かもしれないが心配かな。 それとバサバサ切りまくるのは結構だが、木を見て森を見ず…切り過ぎて心の貧しい国造りの手先だけにはならないで欲しいな。
綜合演出の俺が言うのも手前味噌に聞こえるが、今年も素晴らしいショーだった。 今年のグランドテーマは「リ・ニューアル」 文化やアートをクリエイトすることは、この国の先達の感性や伝統や魂を継承し、そこに新しい感覚をインプットすること・・・ 政治や経済・文化を含め今、この国に必要なのは革命に近いほどの「リ・ニューアル」なのである。 このコンセプトを全校学生が理解して、全員で見事にショーを創り上げたのである。 今回のショーの素晴らしさは、エンターテイメント性もさることながら、ショーを創る過程において、学生達が垣間見せた人間愛とも言える美しさであった。 数百人の学生がそれぞれの役割を分担して行う舞台ショーである。 華やかなモデルもヘアーメークも制作スタッフも観客整理・警備係り も、すべて学生である。 誰だって華やかな役割に付きたいだろう。 しかし、役割の分担と言う大儀の元に、それぞれが自己矛盾を克服し、更に自己犠牲まで発揮してチームワークを維持してくれた学生もいた。 最近の大人社会では死語に近い「自己犠牲の美しい精神」を俺は自分の教え子達に見た。 この喜びは筆舌に尽くし難いものがある。 これこそ国際理容美容専門学校が校是にかかえる「躾」教育の賜物である。 今年の「美翔祭」は数百名の一体感と何ものにも替えがたい崇高な精神である「若者たちの自己犠牲」を見せてもらった。 俺は自分の学生達を誇りに想うと共に、心から尊敬するのである。 みんな!どうもありがとう。
この命の中には知恵や経験や魂など大切なものが詰まっている。 これは地球上のすべての生物に共通した自然の摂理なのだ。 最近、人間だけがこの掟を破り、なんと自分の子供や家族だけに金や地位や権利を継承することだけに汲々とする哀れな奴らがいる。 それも小金を溜め込んだ、企業成金に多い。 そんな晩節を汚すことが無いようにしたいと思っているが、俺は若者たちに何を残し、何を継承していくのかが定まらない。 それを見つけるために、今年から毎週のように神社巡りの小さな旅を続けている。 日本の大きな神社とその周辺には、出雲・大和時代からの長い歴史と 大自然、町並み、人々の生活が微かに残されているからだ。 そのかけらを拾い集め、自分なりの生きた証と目的を確認したい旅なのである。 昨日は千葉県の上総国・一ノ宮の玉前神社へ行って来た。 JR京葉線特急「わかしお」で上総一ノ宮駅で下りると小雨だった。 バスが三台も来たら身動きできないほどの駅前広場、店も駅前食堂と花屋が数軒、おまけに人の姿がほとんどない。 玉前神社へ7分の標識を見ながら町を歩く。 雨だからか歩行者もなく、小さな町並みを見ながら玉前神社に着く。 この神社は上総国の一ノ宮だけあって1200年の歴史があり、大社造りの拝殿も本殿にも大切に守ってきた人々の想いが感じられる。 本殿裏手の神木も見事な歴史の威容を見せている。 この地は縄文・弥生から人々の営みがあったところで、静寂に耳を澄ませると往時の古代人の囁きさえ聞こえるようだ。 玉前神社から雨の中を南へ30分ほど歩くと海へ出た。 駅前から海へのバスは一日に3便しかないのだ。 ここは房総半島の九十九里浜最南端である。 雨の浜は北風が舞い、不規則に潰された波が荒い。 砂浜に傘を差して彼方の沖合いを見詰める。 太古から延々と続くこの大自然の営みの中で、人間はいったい何を見つけたと言うのだろう。 万物の霊長などと大見得を切って、何をしてきたのだろう。 科学・化学万能の時代と胸を張っても、インフルエンザひとつに日本中が右往左往するだけである。 アメリカでは40%以上の母親達が我が子への予防注射を拒否している。副作用が怖いのだ。 日本ではそんな情報もなく、2回摂取だの1回だのと先を争って大騒ぎである。 科学など信じてはいけない。 大切なのは、自分が生きていく上で自然か不自然かを見極める魂なのだ。その物差しを持っているのは日本人だけである。 これも古代人から受け継いだ日本人固有の宝物なのである。 帰りに駅前のひなびた食堂で食べたチラシ寿司がとっても美味しかった。
確かに俺も最近は裁判所通いが楽しみの一つではある。 で、先週は20日に霞ヶ関の東京地方裁判所へ行ってきた。 先月、答弁書すら出さず闘う姿勢を示した被告との2回目の公判だ。 東京地裁では、19日は高相被告、20日は俺、21日は押尾学被告と続いていて笑っちゃうね。 もっとも19日や21日の地裁玄関前は報道陣と傍聴券を求める人々で、朝の新宿駅のような雑踏であったが、俺の20日は玄関前に一人もいないと言う寂しさ。 だからその寂しさを携帯カメラで撮ろうとしたら警備員数名がすっ飛んできて止めろと言う。 「報道陣は良くて、なんで俺はだめなんだ?」 と悪態をつくも無視された。 まぁ同じ裁判でも高相・押尾両名は被告、俺は原告…この違いは精神的に大きいね。 でも麻薬取り締まりは難しい事件だ。 正直言って二人とも、いや酒井法子にしても自分が悪事を働いたとは思っていないだろう。 現に今、麻薬を使っている多くの人間達もそうだろう。 心の中では、酒はどんなに度数が強くても、中毒になっても罰せられず、タバコも同様である。 麻薬と酒類の違いはなんなのか? 大麻と煙草の違いはなんなのか? 知識人を自認するお偉い?方々には、甚だ子供じみた意見に見えるだろうが、庶民レベルとはこういうことなのだ。 サプリメントやドーピング違反とされる薬品類や健康食品だって同じことが言える。 それぞれの径庭は誰が何の基準で決めたのか?が判然としないのだ。 渋谷や新宿の街へ出て、通りすがりの若者に聞いてみればわかる。 麻薬の入手方法など分っている奴のほうが多いくらいだもの。 と言って、俺は麻薬など肯定しているのではない。 現に俺は麻薬どころか酒も煙草もサプリメントすら口にしないのだ。 俺の筋肉はドラッグレスである。 まぁ話が長くなったが、麻薬と人間の付き合い・・・これは簡単な問題ではないのは確かだね。 で、俺の裁判に戻る。 第二回目の今回、法廷は前回と同じ6階の608号法廷、裁判官も前回と同じ眼鏡をかけた柔和な顔の小太り中年さんと書記官は気の強そうなアラサーって感じの女性コンビだ。 相手の被告は答弁書を出してきて和解を申し出てきた。 裁判官は「これで結審の方向でどうですか?」 と聞いてきたが、俺は不服を申し立て、今回も膠着、来月の法廷を取り決めてあっけなく終わりだった。 この日、数時間後に被告の相手より直接連絡があり、更なる和解条件を提出してきた。 でも、俺はそれも却下した。 そして新たな条件を提示して、一週間の答弁猶予を提供した。 多分、これで和解条件は整い、来月の法廷で結審するだろう。 今週はもう一件、少し大きな相手との裁判がある。 このワクワク感はいったいなんなのだ?
長門裕之さんから重態な病であることは伺っていたので、まもなくこの日が来ることは感じていた。 ボクが南田洋子さんと初めてお会いしたのは1970年代、フジテレビの音楽番組ミュージックフェアだった。 長門裕之・南田洋子夫妻が司会進行役でボクは駆け出しの構成作家だった。 三年ほど番組をご一緒したが、南田洋子さんはすばらしい気遣いをされる方で、金の無いボクらスタッフにしばしばご馳走をしてくれた。 六本木の会員制クラブ「TCK CCC]のレストランによく連れていって貰ったのが、昨日のように思い出される。 南田洋子さんは長門裕之さんよりも一歳年上の姉さん女房である。 金のわらじを履いてでも見つけろと、男どもには合言葉もある、一歳年上の女房なのだ。 確かに南田さんは女としての気風が最高だ。 こんなことがあった。 南田さんと京都へ旅番組のロケに行ったときだ。 夜、宿舎の旅館に当時、遊び人の旦那・長門裕之さんが尋ねてきた。 京都の舞妓さんと遊びたいので金を貸して…と言うことだった。 すると南田洋子さんはバッグから分厚い財布を取り出すと、そのままポーンと渡したのである。 さすが姉さん女房だ!とボクは感動したのを思い出すのである。 この旅番組では、南田さんの優しさを実感した強烈な想い出もある。 TBSの全国ネットで始まったこの旅番組のスタートは1990年代。 この頃、ボクはプロデュサーになっていて初回放送のゲストに南田洋子さんを起用し、京都ロケを組んだ。 京都ではテレビ初取材の高級料亭「吉兆」などと話をつけて取材した。テレビの食べ歩き旅のはしりのような注目番組だった。 しかも撮影は当時、最先端のENGカメラを使っての画期的な番組だったのである。 初回のその取材は無事に終わり、東京に戻ってプレビューしてぶっ飛んだ。 すべての画面にノイズという信号が入っていて、とてもオンエアできる作品でなない。 現場ではENGモニターが小さく、技術者がノイズをチェックできなかったのだ。 ボクは南田洋子さんに顛末をお話して、再度京都ロケをやらせていただいた。『吉兆」などにも頭を下げられるだけ下げて了解してもらったのである。 今度は現場でノイズチェックなど充分にやった。 そして帰京して、編集所で腰を抜かした。 なんと今度は音声が入っていなかったのである。 これじゃ放送できない。 もう一度撮影も不可能・・・。なにしろ放送3日前なのだ。 頭を抱えたボクに浮かんだのは、アテレコ・・・。 つまり自分のクチパクに台詞を録音していくのである。 映画などではよくあるが、旅番組の喋りは台本のない、フリートークである。これに台詞をかぶせるのは前代未聞のことである。 ありえないことなのだ。 それをボクは南田洋子さんに土下座しお願いした。 「分った、すぐやろう」 南田洋子さんは嫌な顔ひとつせず、むしろ落ち込んでるボクを励ます言葉さえかけてくれたのである。 こうして今日までボクのテレビ生活40余年の中でも最大のトラブルも、南田洋子さんのお陰で無事放送することが出来たのである。 今、ボクは秋の夜空に旅立っていかれる南田洋子さんに、そっとお声をかけた。 「洋子さん、ありがとうございました・・・」
自殺と言うロス市警の発表であった。 その日の夜から三日ほどテレビや新聞、雑誌マスコミの取材にに追われたが、ボクはキチンと対応し、同じ言葉を繰り返した。 「三浦和義は自殺などしていない。その根拠はこうだ」と・・・。 しかし、いつものようなマスコミの国民への意識誘導記事でなんとなく自殺説で世の中は落ち着き、この大事件は忘れ去られている。 様々な事件は次々と起こるから、仕方のないことではあるが、ボクたち支援グループは決して忘れもしないし、行動を緩めもしない。 ロス市警とはマーク・ゲラゴス弁護士チームが丁々発止の駆け引きの最中である。 一年たってもロス市警が留置場の内部や自殺とする仔細な情報をなんら提出してこないのは、向こうに非がある証拠だろう。 わが国の司法当局が、それをアメリカに請求しないのも、日米間に犯罪捜査に関する密約があるとしか思えない。 そのことはボクはレポートにしてアメリカサイドに提出してある。 日本がアメリカの法体系に合わせる義務など無いはずである。 この国は尊厳も理性もある独立国なのだから。 政権も新しく変わったのだから、ぜひ司法の情報公開を望みたい。 でなければ、最高裁で遂に無罪を勝ち取った男のプライドと無念を晴らせない。 三浦和義さんの一周忌にあたり、ボクは残る人生のライフワークのひとつとして、いつまでも彼の無念を共有する。 この一年前の出来事は、単に一人の男の死ではなく日本の未来を左右する重要な大事件なのである。だからボクは闘う。
その前に先月の後日談であるが、あの訴訟では被告の答弁書に記載されていた和解条件を俺が却下して、次回裁判が10月初旬になったのだが、面白いことに、その当日の夕刻、被告側の弁護士より降伏和解の申し出があり、無駄な闘いは好まないので提訴を取り下げた。 さて先月、俺が更に別に2件の提訴した裁判が東京地方裁判所で行われた。 今度は霞ヶ関の地裁である。 地裁ビルの玄関には報道カメラマン達がスタンバイしていた。 今回の俺の訴訟はニュースになるほどの事件ではないのだがと思っていたら、これは例の「のりぴー」が保釈になる日で保釈金の納付を待っていたのだった。暇な奴らだねー。 この地裁のあるビルは地上19階、地下3階、ここに簡易裁判所、地方裁判所、高等裁判所が入った3庁合同庁舎。 地裁だけでも3フロアーに90室の法廷があり、全部では150法廷あるそうだ。 まず玄関から入るや荷物検査で金属類のチェックがある。パスしてロビーにはいると300名ほどの人が、自分の法廷を探して大騒動である。 無理もない、ここには1日平均1万人の人が来るそうだ。 世界でも有数の裁判所らしいが、まぁそれだけ東京には事件や訴訟が多いのである。 今回、俺が行ったのは608号法廷、其処に入ると18席の傍聴席は満席だった。 正面奥に小柄でおとなしそうな顔をした裁判官、一段下の席には中年の眼鏡をかけた気の強そうな女性の書記官、それに庶務という構成。向かって右側が被告席、左側の原告席には今回も予算節約の為本人訴訟なので俺一人である。 ここで2件の訴訟を続けてやることになっていたが、被告Aは昨日までに全面的降伏和解の申し出があり、俺も同意したので取り下げ。 被告Bは無謀にも全面的戦いを挑んできた。俺の訴状に答弁書すら出さない傍若無人ぶりである。 これは面白い。この日の法廷では埒があかないので、裁判官申し出により、次回法廷は10月中旬となったのであった。 今回の一連の裁判はすべて俺が原告であり、更に弁護士いらずの本人訴訟である。 天国で俺の朋友・三浦和義さんも大喜びしてくれるだろうな。 今月は更にもう一件の訴訟も決まった。 今度の相手は少し大物であるし楽しみだ。 俺はもうほとんど裁判に病み付きである。 俺は作家だから当然これらは文章化して出版する予定である。 編集者がこれを読んでいたら、はやくリーチしたほうがいいよ。 この後も法廷に引きずり出したい奴が数名いるから。 では、次回の裁判報告に、乞うご期待!
環境を招致のテーマにすること自体馬鹿げているのに、それをお祭り騒ぎのように報道したマスコミにも猛省を促したい。 石原都知事の魂胆はミエミエだった。 環境をテーマにすることにより、環境ビジネスでボロ儲けを企む企業と大手広告代理店と放送局と自分の息子親族の金儲けの為でしかなかった。 東京オリンピックで環境がテーマだと・・・とんだお笑いである。 あの猪瀬直樹副知事まで、わざわざ難しい顔をして「オリンピックの16年には東京を走る車の60%はハイブリッドです」だと。 そんなことオリンピックに関係なく政治家ならやることだろうが。 猪瀬も次期都知事の座を狙ってるから石原の犬と化してきたのが面白い。 そんなことはどうでもいい。 東京都民の大部分の庶民が全く望んでいなかった五輪招致に、税金から150億円も使った責任はどうとるのだろうか。 個人の権力を振り回し、こんな暴挙は考えようによっては犯罪に等しいと俺は思う。 石原知事は自分をどんな人間だと考えているのだろう。 彼が思うほど都民は尊敬も畏敬もしていない。 彼も最近巷にゴロゴロしている小金持ちの裸の王様である。 今回、その王様に摺り寄り、オイショとオベンチャラでお愛想を振りまいた一部のアスリート達と芸能人達も同罪である。 お前さんたちが懐に入れた高額なギャラは都民の涙の税金であることを忘れては困る。いったい幾ら貰ったのだ? ボランティアなら少しは許すが、そんな奴はいないだろう。 今回、湯水のように使ってくれた150億円の税金、その使い道の細部まで公表させなければ、都民の気持は治まらない。 石原知事は個人財産を投げ出しても責任を取るべきだ。 それが権力者の運命なのだから。 奢れるものは久しからずである。 もう一つ、今回の東京五輪のコンセプトテーマである「環境ナントカ云々」は多分大手広告代理店が提出した企画書だろうが、どれほどの大金が支払われたのだろう。あんな馬鹿げた浮世離れした企画に。 せめてこの日本が世界にオリンピックの開催を招致したいのなら、そして俺が企画プロデューサーなら、テーマは「地球上からの核廃絶&永久の平和の為に」 開催場所は「広島&長崎」である。それしかありえない。 民主党も政権を執ったのなら、そのくらいは考えるべきだ。 鳩山首相が尻尾振ってコペンハーゲンへ行くべきだは、断じてなかったのである。 その程度の政府じゃこの国は危ういね。
行ったのは初めてではないが、今までは友人や仲間の応援の為に傍聴席にはよく行っていた。 しかし、今回は原告で、しかも弁護士費用がもったいないので本人訴訟である。 東京地方裁判所立川支部401法廷 武蔵野の面影が残る立川の郊外にある新築の裁判所のビルは、冷たい感じはなく温かく俺を迎えてくれたって、それは俺が原告だからだろうね。これが被告だったら氷のようなビルに見えるのだろう。 意外だったのは、セキュリティがゆるく派手なジャケットの俺を咎める人も居らず、身分を明らかにする必要もなかった。 50人は入れそうな法廷には正面奥に裁判官、その前に書記官が座り、向かって左側に原告席、右側に被告席がある。 まず裁判官より俺への本人確認があり、被告の答弁書を開示し、提示された和解条件を承諾するや否やの質問があった。 俺は即座に和解提案を拒否した。 で、今回の審理は終了、次回審理日時を決定すると言う、実にスピーディな裁判であった。 本人訴訟の裁判は面白いとは、我が朋友である三浦和義さんからしばしば聞かされていた。 彼はロス疑惑の件では、本人訴訟で連戦連勝だった。 「弁護士いらず」なんて本まで出版している。 確かに、こりゃ面白い。 実はこれに味をしめて、今月はあと2件も俺が提訴した裁判があるのだ。 勿論すべて俺が原告の本人訴訟である。 そして、今後も提訴したい輩が複数いて、準備に入っている。 心当たりがある方は首を洗って待っていてくれ。 いやぁー、本人訴訟の裁判は面白い。 すっかり病みつきになってしまったよ。
今週はテレビも新聞・雑誌も同じような評論屋さんや自称キャスター(俺は彼らをキャスターとは思っていない)たちが、同じような話で時間を浪費している。 今だけは民主党への期待感で皆さん互助会のように話を合わせているが、なに、その内悪口を言い始めるに違いな。 今回、政権交代が国民の目的ではないのだ。 民主党政権になっても世の中、変わりはしない。 政治家が替わっても、既にこの国では集団の最小単位である、家庭や地域、職場・学校の生活・環境が破綻・崩壊しているのだ。 政権交代しても国政レベルではもう、どうしようもないところまできてしまっている。 しかも民主党になっても、申し訳ないが政治家たちの志やレベルは自民党と変わりはしない。 ますます独裁政治色が強まるだろう。 今、俺たち国民がすべきこと・・・それは国政にたずさわる政治家の質を根本から変えることだ。 政治家を職業ではなく使命として志す人々にチェンジしなければいけない。 テレビのバカな番組で顔を売るような輩はもっての他である。 だいたい選挙演説で「お願いします」だの「助けてください」だの土下座までした奴等は国政に携わる資格などない。 本来、政治家とは有権者が土下座しお願いしてなっていただくものなのだ。 「私たちの生活のために、どうぞ政治家になってください。お願いします」とこちらから願う存在が政治家なのだ。 そんな政治家が民主党や自民党にいるのだろうか? その政治家の使命を最も具現化しなければならない存在が、共産党であり、社民党であり、公明党だと思うのだが、彼らはそんな哲学すら持ち合わせてはいない。 我々、国民が政権交代の次にやることは、政治家の交代である。 自民党をぶっ潰した力で、今の政治家達をぶっつぶす事である。 その策を一つ提案したいが、長くなったので次回にします。 乞う!ご期待って…誰も期待してねーか・・・。
革命記念日にしなければいけない。 この好機を逸しては絶対にいけないのだ。 今回の衆議院議員選挙は単に保革が逆転し、民主党政権の樹立が国民の目的ではない。 そんなことは、今の自民党員の堕落振りをみれば当然で、国の明日を考える政治家など皆無なのだから。 しかし、830を政権交代だけの記念日で浮かれてはいけない。 戦後、初めてと言っていい大改革を大革命へのスタートにしよう。 自民の一党独裁とも言える悪癖、悪政はこの国の社会すべてを汚染してしまった。 各企業のトップを見れば明白である。 殆どがトップの独裁ではないか。 特に一代にして功なり名を遂げたなんて成金の輩が最悪である。 貯えた金力や権力は、自分の力量のなせる業の如く錯覚している。 社会は本来、すべてが平等に出来ている。 独りに金力や権力が集中したら、そいつの足元で大勢の人々が辛い思いをし、泣いているのだ。 企業の独裁者にはそれが分っていない。 更に金力や権力はまっとうな方法では集まらない。 殆どが公金横領や詐欺を会社ぐるみでやっているのだ。 今こそ、これを許してはいけない。 雇用や福祉の破壊なども、国だけの問題ではない。 もっと末端の企業レベルでのとんでもない格差の創出こそ問題なのだ。 830 この日から、一人一人が内部告発、外部告発をして悪辣な経営者を叩きのめそうではないか? 俺にもどうしても許せない悪の権現のような経営者がいる。 830 この日こそ、国家の政体を根本的に改革し、一人一人の社会生活に重大な変革をもたらそうではありませんか。 庶民の革命まで、あと一週間である。 善良な国民は総決起せよ!
すぐさま1975年に新伍さんを司会役に起用してテレビ東京(当時は東京12チャンネル)で作った番組「独占・男の時間」のプロデューサー 彦坂さんに電話したが、なんと「彦さん」まで入院中で驚いた。 山城さんが体調を崩し施設で孤独な生活をしているのは知っていたし、面会にも行きたかったが、なにしろあのカッコマンの新伍さん、 惨めに衰えた姿は見せたくなかったのだろう。 いつも体よく断られていたのである。 でも俺は新伍さんの死が近いことは、その言葉で感づいていた。 彼は最後は再び正義の味方で色男の白馬童子でいたかったのだ。 だからそっとしておいた。 新吾さんとの付き合いは、京都の撮影所を食うや食わずで上京してきた75年ごろ、俺の企画の「独占・男の時間」の司会進行役に抜擢した時からである。 この番組は当時当該放送局では珍しいほどの話題の番組になり、山城新伍の名も再び世間に轟いた。 その後も二人で数々の悪さもし、世の中と大喧嘩もしてきたがそのエピソードは俺が今、執筆中の俺の自伝に書き込むつもりなのでここでは割愛。 今日、新聞各紙を取り寄せたが、新伍さんの死亡記事は全紙バカの一つ覚えのように共同通信からの配信記事の垂れ流しで、すべて同じであった。 せめて親友だった梅宮さんや松方さんの談話くらい欲しかったよね、新伍ちゃん! じつは新伍さんは俺より年上であるが、出会いのときから「新伍ちゃん」と呼んでいた。 でも今日は各紙・各局いきなりの情報で間に合わなかったのだろう。 明日はきっときちんと大スター並みの報道をしてくれるはずだよ。 だから新伍ちゃんは白い馬にまたがって天空を飛びまわって、あの世ででかいツラしてる奴らをバッタバッタ斬りまくってくださいね。 ではさようなら・新伍ちゃん。
靖国の夏、今年も森の中は溢れんばかりの蝉の声だ。 この国の為に散華した人々が今年も靖国に帰って来た、蝉となって。 拝殿に二拝二拍一拝し、空を仰ぐ。 東京の空は涙を溜め込んだような厚い斑雲が北東に流れていた。 ボクは毎年8月に靖国神社に参拝するが決して思想的な感情からではない。 右翼思想を持つ友人も沢山いるが、極左翼の友人もいる。 ボク自身の思想は偏ってはいないと思っている。 純粋にこの国を想い、家族を守り、愛する人の為に散華していった英霊たちへの感謝の気持からなのだ。 彼ら、彼女らの自己犠牲があってこそ、今日のボクの命があるからだ。ボクの命は名も知らぬ人々の犠牲の元にあるのだから。 靖国では今、「矢弾丸尽きるとも、我レ生還ヲ期セズ」と言う催しをやっている。 若くして散華していった学徒たちと、その家族、友人たちの魂の記録展である。 ボクは彼らの遺品や写真の前で立ち止まり、心からの敬礼を捧げた。 まもなく15日が近付きマスコミや政治家が靖国参拝の是非をバカの一つ覚えのように騒ぎ出すだろう。 選挙運動のひとつに利用する輩も現れるに違いない。 靖国はそんな奴らの為にあるのではない。 純粋にこの国を憂い、国の誠を次世代に継承する人々の為にあるのだ。 万鳴の蝉時雨が今日も靖国神社の森に木霊していることだろう。
ちょうど今頃は、地裁に集合させられた73名の候補者から6名の裁判員と3名の補充裁判員の選任が行われているだろう。 こうして本日から4日間で結審させようというのだ。 今回の東京足立区で起きた殺傷事件では被害者の遺族も参加する「被害者参加制度」も合わせて行われる。 ところでこの裁判員制度に反対する人々が多いが、ボクもその1人である。 ただしボクの反対の根拠は司法の専門家の方々とは違う。 まずボクはこの日本では裁判員制度は絶対に馴染まないと思うのだ。 人を裁く裁判員や陪審員には必ず責任がある。 人が人を裁き、それが誤審、冤罪の場合、どう責任をとるのか? この場合、責任の放棄は出来ないのだ。 しかし、一神教の国の人々はそれが許される。 自分の行い・過ちを懺悔し神のお許しを得ればよいからだ。 だからキリストやイスラムなどの一神教の国々の人は、裁判に入る前にそれぞれの聖書をかざして神に誓うのだ。 裁判員や陪審員は神の名において行っているのだ。 だから判断が誤っても責任や自戒の念を回避できる。 しかし、ボクたち日本人は多神教である。 神と約束しようにも、神様が多すぎちゃって、どの神様が担当なのか分らないのである。 やおよろずの神の国、日本には絶対神がいないのである。 天皇は神ではなく、象徴になってしまった。 だから最後に天皇にすがりつく訳にはいかない。 日本には絶対神がいなくなってから、国民の心のボーダーラインが希薄になってしまった。 そこで近世になって中国の助けを借りて、孔子・孟子などにお出ましいただき論語を指針にしたりもした。 しかし、先の大戦で中国との仲もおかしくなり、論語を人生の指針にする人もすくなくなった。 多神教の日本人の心は今、漂流しているのである。 今、この国に必要なものは確かなリーダーであり、明確な国民のアイデンティティなのだ。 政治とはそれを考え作り出すことだと思うが、この国には国を憂う政治家など皆無である。 今月の選挙で保革が逆転しようとも、何も変わらないだろう。 こんなに国の基盤が確立していないのに、裁判員制度である。 この国がますます混乱して行く。 日本列島の大漂流時代である。
しかしボクは「自殺」と言うネガティブな言葉でのみ報道するマスコミの姿勢があまりにも短絡的で嫌いだ。 自らが自らの意思で命を収めることを「自殺」と言うのだろうか。 それが妥当とするのなら、人間の死には「自殺」と「他殺」しかないではないか。 では病院での死亡は「他殺」なのか? そんなばかなと言うのなら、ではなんと言うのだろう。 まず「自殺」と言う言い方が命の尊厳を踏みにじる言葉なのだ。 「自殺」なんて言い方は昔の文献にはなく、自害、自刃、自尽などと言っていた。 つまり命を納める方法によって、言い方の違いがあるわけで、ボクたちの国では死も文化なのである。 つまり「自死」なのであり、それ以外は「他死」なのだ。 「他死」の中に「他殺」も含まれると考えるべきである。 ボクは「自死」願望である。 自らの意思で己の命を収めることは決してネガティブ思考ではなく、むしろポジティブな生き方である。 死に方は自らの生き方なのだから・・・。 ボクは身近な人々にも「自死」をすると伝えてある。 絶対に「他死」は嫌なのだ。 実はこのような話を生前の阿久悠さんとよく議論していた。 阿久悠さんも自分のフィナーレは自らの意思で緞帳を降ろしたいと言っていた。 そして2年前の今日、夜明けが近いかわたれ時、阿久悠さんは人工呼吸器と点滴器具を着けたままベッドから下り、カーテンを開けた窓際のリクライニングチェアーに座って静かに鼓動を閉じていた。 「自殺」「他殺」『自死」『他死」・・・阿久悠さんの「死」はなんだったのだろう。 「病死」なんて言ういい加減な概念に当てはめるのはナンセンスだ。 阿久悠さんが命を収める三日前に、病室でボクに渡したメモがある。 彼はしばしばメモをボクに渡していたのである。 そこには筆圧を失った弱弱しいサインペンの文字で・・・ 「かわたれどき・逢魔が刻・・・」 と書いてあった。 阿久悠さんは何が言いたかったのだろう。 ボクは知っているが、今はまだ言いたくない。 阿久悠さんの三回忌の今日、ボクは独りで静かに過ごしている。
ボクが当初から担当させていただいていた公園の歌姫・歌手あさみちゆきさんの今秋のコンサートの演出を、今回は降りてくれと言うことだった。 言ってきたのは、あのメジャーなテイチクレコード。 理由は今回のコンサートの楽曲に阿久 悠さんの作品を使うにあたり、阿久悠さんを7年間看病し、その闘病記「勝手にしやがれ」を書いた著者のボクが気にいらないと言うのだ。 なんでレコード会社がそんな人権を無視した行動に出たのか? 不当な理由で仕事を取り上げるのは、完全に人権問題である。 ボクは今、「人権と報道・連絡会」のメンバーであるから、当然この問題はテーマとして追求させていただく。 それは今後のこととして、この問題には続きがある。 どう考えてもレコード会社がボクの著作「勝手にしやがれ」にクレームを付けるのは変ですよね。 調べたら、僕をコンサートの演出から引きずり下ろすことを、阿久悠作品をコンサートに使う許可の条件にしたのは阿久悠さんの音楽著作権を管理している某社であった。 某社がテイチクレコードに言わせたのです。 某社と言ったって、ボクのことを知っている方々なら某社がどこの会社かは明白でしょう。 そうボクが40年も所属していた、あの会社です。 ボクが阿久悠闘病記「勝手にしやがれ」を書いたことが気にいらないのです。 この本を読んでいただければ、お分かりですが ボクが阿久悠さんを人間として描いたことが許せないのでしょう。 なぜなら作詞家・阿久悠にまとわり付いている連中は、阿久悠をいつまでも作詞界の怪物として偶像化しておきたいのです。 そのほうが歌が売れて儲かると考えているのです。 音楽と言う文化を経済でしか考えられない連中です。 悲しいことです。 末期癌で苦しむ阿久悠さんはいつもボクに言っていました。 「おれは贅沢も嫌いな普通の人間なんだけどなぁ」とか 「病気になったら誰も来やしない」とか。 もっとも余命のカウントダウンになったら、どっと押し寄せてきた輩の貧しいツラのなんと醜かったことか・・・。 そんな奴らが今も阿久悠の楽曲権利を奪い合い、阿久悠さんを人間として書いたボクが許せないというのです。 弱肉強食の寒々しい社会を作ったのは自民党の腐敗政治だけではないのです。 日本の音楽と言う文化の現場でも、人間の優しい心を無視したケダモノたちが跋扈しているのです。 ボクは日本の子供達にこの国をキチンと引き渡すために、こう言う問題に目を瞑るつもりは毛頭ありません。 ただし、可愛いあさみちゆきさんとスタッフ、製作現場の人々に迷惑にならぬよう、コンサートの演出の仕事からは手を引きます。 残念ですが・・・。でも闘う相手が明確になって良かった。 あと2時間で8月1日…あすは阿久悠さんの三回忌です。 ぼくはなぜか呼ばれておりませんが、天に向かって一人で合掌します。
18年も無実を叫び続けて闘ってきた男の姿は垣間見えなかったのだ。 むしろ人間の尊厳も生きる力さえ抜き取られたような男の残像としかボクには感じられなかった。 ご自分が発言する時意外は、いつも下を向くか虚空に目を彷徨わせていた。 事件の概要や検察の取調べなどは、弁護士の佐藤博史さんが丁寧すぎるほど語ってくれたが、そんな時でも菅家さんは下を向き、目を閉じていた。 18年ぶりに出てきた社会も、菅家さんにとっては決して自由なんかではなく、毎日がマスコミや世間の人々に晒され拘束された日々なのだろう。 佐藤弁護士が無実の弁償にどう熱弁を振るっても、ボクはこの足利事件を云々する立場にはない。 そこまで事件の概要を知らないからだ。 しかし。冤罪被害の残酷さは痛感している。 三浦和義さんのご紹介もあり、多くの冤罪被害者の方々にお会いする機会を得たが、すべて無残な事件ばかりであり残酷な人生を抱えた人々である。 そしてその事件にはまた、被害者と言うもっと残酷な人生を背負わせられたご家族たちがいるのだ。 だからこそ冤罪を作りだしてはいけない。 その冤罪作りにマスコミが大きく加担している現況は異常である。 18年前、あれほど足利事件の菅家利和さんを鬼畜のように報道していたマスコミが今、確かな謝罪もなく英雄の如く扱っている。 背筋が凍りつくようなこの現実も、今こそ打破しなくてはならない。 小さな権力や金力を守ろうとする、心の貧しい人間達はまず、身近な人間を疑い、悪者に仕立て上げる。 冤罪の温床は日常のそんなところから出来上がるのだ。 冤罪を作り出す輩を絶対に許してはいけない。 冤罪は僕らの生活の中まで進入してきているのだ。 [↓前の20件] [トップページへ戻る] |