![]() |
|
【いちご悪書】 100 件ずつ表示します。 件数変更 [50] [100] [500]
歴史的異常さの猛暑に反比例するかのように、この国の政治の肌寒さはなんなのだろう。 マスコミで語る政治家・評論家・自称?知識人たちの言葉で、すごく気に掛かることがある。 それは横文字の多用さである。 大事な部分になると、訳の分らない横文字をさらっとお使いになるのだ。 それで、マスコミ人も何となく納得顔で済ましてします。 その代表的な言葉が、政治家もマスコミも大好きな「マニフェスト」だろう。 なんで政策の大事な言葉に、横文字を使うのか? 「マニフェスト」を政策公約とでも無理に訳しているのだろうが、この言葉は何語? 英語なら「manifestion」であり、「manifest」なら形容詞だから「あきらかな」と言った意味しかない。 「manifesto」という名詞の単語もあるが、これはフランス語だ。 まさか日本政治の根幹に欧州の農業国のフランス語は使わないでしょう。 余談ですが、みんなの党のお好きな「アジェンダ」に到っては「お祈り」なんて意味にもとれるのです、お気の毒に。 「マニフェスト」みんなが分ったような顔をしているこの言語感覚が危険なんです。 主に英語の多用ですが、ボクはこれはアメリカの陰謀だと考えています。 「happy slave」…訳せば「幸せな奴隷}です。 支配されている側が、支配されていると感じさせない、最も高度な支配。 究極の支配を「幸せな奴隷」と言います。 戦後65年、アメリカは将に日本国を「幸せな奴隷」として支配してきたのです。 アメリカと日本の関係は将にこれなんです。 ボクたちはアメリカの幸せな奴隷になっているのです。 日常会話の英語の氾濫は、アメリカの戦略の一環だと、ボクは思っています。 でなけりゃ、戦後の文部省が日本語教育を減らし、英語教育を必須科目にすると言う、不自然な方針を出すはずがありません。 今こそ、皆がアメリカと日本の関係を理解した上で、政治家や日常の先導者を選らばなければなりません。 大事なことは、まず日本語で語るべきです。
テレビではNHKだけが、全国戦没者追悼式を生中継していたが、民放は相変わらず愚にもつかない番組の垂れ流しである。 心ある視聴者は、そんな番組を支えているスポンサーの商品を買わないのに。 朝日新聞などはこの終戦の日を一面で扱ってはいない。 この国のマスメディアとはなんなのだろう? ジャーナルの一欠けらもないのだろうか。 ボクはいつものように、正午に自宅で独り黙祷で、310万人の戦没者の方々に哀悼と感謝を捧げた。 この人々のお陰で今日のボクの生活があるのだ。 310万人の皆様にボクは生かされているのです。 それをどうしてこの国のリーダーたちは分らないのだろう。 戦没者の皆様の死を無視するのだろう。 無視ならまだ良い。 民主党のように「閣僚は靖国神社参拝しません」などと、わざわざ誰の顔色を伺って発信しているのか? 政府としての発信なら憲法違反の疑いもある馬鹿げた行為だ。 ボクは今年の春、靖国神社本殿の正式参拝をさせていただいたことがきっかけで、関東とその近県の護国神社の参拝をしている。 各県の護国神社は戦争に命を捧げて散った人々を英霊として、おまつりしている。 その護国神社めぐりで気付いたことは、日本人は余りにも310万人の命を無視しすぎていると感じたのだ。 なぜなら普段、護国神社を参拝する人が殆どいない。 どこも閑散としている。 先週は埼玉県の護国神社へ行ったが、ボクがお参りしていた30分ほどの間、全く人が来なかった。 大都会大宮市の真ん中にあるのに、そんなことでいいのだろうか。 戦争とは何だったのか…もっと真剣に考えたい。 護国神社の英霊たちを悲しませてはならないのだ。 それが民主党の能天気な馬鹿げた判断である。 ボクも民主党なら少しは変化が…とも思ったがそれが幻想であることが最近はっきりしてきた。 くだらない権力を持った奴の行動はみな同じだ。 弱者の悲しみや切なさが見えなくなるらしい。 大体政府は最近、祝日休日ばかりやたら作っているが、終戦の日はなぜ休日にしないのか? この日こそ、国民の最大の休日にするべきだとボクは思う。 「終戦の日」などとぬるいことを言わないで、はっきりと「敗戦記念日」とするべきだ。 勿論、祝日ではなく「国民の悲日」である。 これを国民こぞって世界に提示してこそ、戦争責任の重荷を日本の若者達が負わないで済むのだ。 それを勇気をもってする事こそ、政治であり大人としての戦争責任の取りかたなのである。
昨夏から学んでいる神道の哲学を、この眼と心で確かめる機会を神社本庁の皆様に頂きました。 そして神社本庁が主催する伝統文化セミナーの一員として、熊野三山…熊野那智大社の火祭り拝観、そして熊野本宮大社と熊野速玉大社への正式参拝をしてまいりました。 更に神武天皇が登ったと言う神倉神社への巌を這い上がり、ご神体「ごとひき磐」の迫力に圧倒されもしました。 将にボクの穢れた心根を洗われた旅でしたが、もっと嬉しいことに出会えました。 それは那智大社の扇祭り(通称・火祭り)に参加していた神職さんと地元の大勢の男達です。 感動的とも言える、紅蓮の炎と燃え盛る50kgの大松明を抱えて、階段を駆け上がり下る者たち、数十キロの扇神輿を担いで那智の大瀧へと御進行する者たち・・・ 特にこの中で、ボクは参加している多くの若者たちの真摯な眼差しと清清しいまでの動きに感動したのです。 都会にいると、やれ草食系だの軟弱派だのとマスコミに揶揄されている若者達・・・ しかし、ここの若き男どもは、将に日本男子の心意気溢れる奴ばかりでした。 日本男子は絶滅危惧種じゃねえ・・・まだまだいっぱいいることが嬉しかったのです。 大自然の中で生き生きと躍動する彼等なら、ボク達の急務である生物の多様性を守る大儀が進められます。 それが確認できたことが嬉しかったのです。 熊野三山詣では、神々から多大なお力をいただき、更に地元の人々からもいただきました。 ありがとうございました。 この頂いたお力で、この国の為、ふるさとの為、弱い生き物達を守る為に全力を捧げる決心がつきました。
帰宅すると一通の手紙が・・・。 差出人は見覚えのある、綺麗な細字で林眞須美とある。 そんな馬鹿な・・・彼女は去年の6月に和歌山毒カレー事件で死刑が確定してしまった。 彼女がいる大阪拘置所は死刑囚に対しては外部交通が禁止、つまり手紙の発・受信はご法度である。 面会も弁護士と家族以外は許されない。 その眞須美さんからの手紙である。 急いで封を切ると、中から出てきたのは雑誌記事のコピーが2枚だけ。 彼女の文面は入っていない。 何かの暗号か、冗談かと矯めつ眇めつ眺め尽くしたが何も見つからない。 送られててきた雑誌記事は、ボクの友人でもあるジャーナリストのKさんが書いた、毒カレー事件の冤罪性に関しての論文である。 この文章は以前にボクも読んでいる。 ますます不思議でKさんに電話した。 そして分った。 大阪拘置所は今、改築していて7月に眞須美さんも独居房が移動になる。そこで私物の整理を通達されたのだ。 そしていつも独居房で握りしめていた、この眞須美さんの無実を訴える論文を捨てきれず、千載一隅の機会に外部発信を許されボクに送ったのだった。 でも文字のひとつも書くことは許されなかったのだ。 彼女は藁にもすがる気持だったのだろう。 でもボクは確かに彼女の気持をしっかり受け止めた。 林眞須美さんの再審請求は、安田弁護士さん達が準備中である。 支援の輪も大きく膨らんでいる。 動機も物的証拠も無い人間を死刑にしては、絶対にいけないのだ。
本来ならボクはまず出席不可能な会なのである。 なぜなら、ボクはこの学校を卒業していない、退学になり学籍は抹消なのだから。 しかし二年前、晴天の霹靂のように、シャガールの絵のように、突然ボクは卒業該当者になってしまったのだ。 このことは書くと長くなるので、暇な方はこの「いちご悪書」の二年前頃を見ていただければ分ります。 まぁそんなこんなで昨日、上智大学マンドリンクラブの同窓会に参加したのだ。 40数年ぶりの友たちの面影を実像に結ぶのは、非常に困難であったが、時が進むにつれ、暖かな想いがボクの胸を満たし始めた。 あの声、この笑顔、紛れも無い心を許せる友がいた。 ボクはこのクラブでパーカッション担当、主にコンガを叩いていたのである。 「お前のコンガはリズム感が最高だったよ」 お世辞にしろ、自分が忘れていた自分の姿を友に教えられる楽しさ。 自分の知らない自分を様々に語ってくれる友たち。 金や地位や権力ではない、人間の結びつきの素晴らしさを腹いっぱいに満たした一日だった。 嬉しかった。 次はボクが所属していた文学部ドイツ文学科の同窓会にも招かれた。 上智大学始まって以来の劣等生と言われたボクが胸を張って出席するつもりだ。 人生って面白い、長く生きているって捨てたもんじゃない。 とにかく素晴らしき上智大学の友たち、大好きだよ。
ボクが前回書いた、この事件に関する問題点を追求する報道が今も、ないことに愕然とし暗澹たる思いがせつない。 動物の命より人間の経済至上主義優先がそれほど大事なのか? 健康な牛や豚にワクチンを投与した上で殺処分する不自然さを、なぜマスコミは追及しないのか? 農水大臣も県知事もワクチン投与の牛や豚をなぜ自ら食わないのか? 食っても人体に何の害もないものを、食肉にしたら国際市場でのブランドランクが下がるからだけの理由ではないか! 人間の利益が、大切な動物たちの命を奪うことに、ボクは抗議することをやめない。 しかし、今回はこれがテーマではない。 こちらの問題も不自然の極みである。 口蹄疫でこれほど大騒ぎしているマスコミが、5月27日に厚生労働省が発表した2009年に発症したエイズ患者数が過去最多になったニュースをほとんど報道していない。 新たなエイズ患者は431人、HIVウイルス感染者数は1021人。 ボクはこの数字は少なすぎると思う。 これは氷山の一角に過ぎない。 なぜならこの年の保健所などでの検査件数は前年よりも2万7千件も減少しているのだ。 どういうことか、はっきり言えばエイズウイルスの蔓延は既に防ぎようが無いところまで来ているのだ。 厚生労働省はお手上げなのだ。 民主党などは目先の問題に大童でエイズ問題など眼中にない。 また民間レベルのエイズ撲滅キャンペーンなども尻すぼみ状態である。 ボクが20年ほど前、一世風靡セピアの団員達を連れてニューヨークで行ったエイズチャリティパフォーマンスの時も、日本のマスコミの関心は薄かったが、現在も同じような状況だ。 NYでのボクが書いたショー台本のテーマは「エイズは人間から愛を奪い去る悪魔」は今も同じである。 エイズに関する日本人の関心は薄すぎる。 口蹄疫よりも100倍も恐ろしい事柄なのに、あまりにも関心が無さ過ぎる。 今、日本の繁華街はエイズウイルス塗れになっている現実を直視するべきなのだ。 どすしたら若者たちにボクの危機感が伝わるのだろうか。
罪の無い牛や豚の命がゴミ屑のように葬られている映像に接するのは辛い。 この事件では報道各社はバカの一つ覚えのように、同じ視点での報道に大童状態である。 テレビも新聞も週刊誌も、この国の報道に携わる方々には、異論の持ち合わせがないのだろうか? 視点を変えると言う基本を持たないのだろうか? 今日あたりは政府も当該自治体の宮崎県も、対策の遅れの責任はないだの、非常事態宣言だの、自分たちの保身に躍起になっているとしかボクには思えないのだ。 そのまんま東知事などは「寝ずに一生懸命やってるんですよ!」 なんて報道陣に興奮して怒鳴っていたが、ちょっと待った! 非常事態宣言を出して、家畜の全頭処分なんて方向に行く気ではないだろうね。 ボクがこの事件で最初から不自然に思っていることがあるんです。 政府も自治体も報道各社もなぜか、口を閉じているのだが、なぜワクチンを投与しないのか・・・と言うことです。 口蹄疫はワクチンで感染は簡単に防げる筈です。 人間のインフルエンザの時はワクチンであれほど大騒ぎしたのに、牛や豚では誰もワクチンのことを言い出さない。 実は彼等にはワクチンを投与したくない事情があるんです。 つまりワクチンを投与した家畜は肉のランクが下がるんです。 例えば日本では牛肉のランクは上中下の3ランクに分類されます。 宮崎県の牛は上ランクが多いのです。 これにワクチンを投与すると中ランクになってしまいます。 つまり金がらみなのです。 今、この国に蔓延している経済至上主義、この国を駄目にした金が全ての判断基準なのです。 だから投与しないのです。 例え宮崎県の家畜を皆殺しにしても、人間の利益を優先するつもりなのです。 牛や豚たちの命を頂いて生きている人間達が、命を頂いている感謝の心を忘れ、彼等を無駄死にさせていいものでしょうか? それを誰も不自然に思わないのでしょうか? この国は今、進むべき方向を完全に見失っています。 この事件だけではありませんが、ボクたち大人は、子ども達に何をどのように伝えたらいいのでしょうか? 最近、ボクがしばしば立ち止まって考えてしまうことです。
日本のマスコミは無関心だが、アメリカではますますヒートアップしているのだ。 トヨタ批判が膨張し、単独詐欺事件として様々な人々が集結し、広域集団訴訟に発展している。 この事件の原告弁護人代表がマーク・ゲラゴス弁護士だと言う。 彼はアメリカでは名立たるスター弁護士である。 いや、ボクも知らない仲ではない。 絶対に忘れることの無い2年前、米国ロスアンジェルス警察の留置所内部で不自然な死をとげた盟友・三浦和義さんの不可解な事件の担当弁護士であったのだ。 ゲラゴス氏の手元には、あの事件に対するボクなりの推理論文も英訳して渡っている。 ゲラゴスは事件当初からあの事件は自殺ではなく、他殺だと認定していた。 その彼が今年になって手のひらを返すように事件から外れることを一方的に通告してきた。 ボクは彼に何が起きたのかと半信半疑であったが、今になって合点が行く。 ボクは彼と権力に何らかの司法取引があったのだと思う。 トヨタ問題と三浦和義さん問題は見えない糸で結ばれている、その糸がボクには見える。 いや、それだけではない。 クロマグロ問題も然り、全てが不自然な連鎖をしているのだ。 今、世界で起きているのはトヨタバッシング等と言う規模ではない。 これは日本バッシング、一気呵成の日本つぶしなのだ。 民主党政権になって、日を追う毎の政治の大混乱、このチャンスを世界が見逃す訳が無い。 現代の戦争は武器など使用しなくても国を消滅させることが出来るのである。 今、戦後最大の日本のクライシスだとボクは感じている。 だからこそ、アメリカの広域集団訴訟が気がかりなのだが・・・。
なぜ日本人の大好きなマグロを…このやろう! いや、そうじゃありません。 ボクが異議を唱えるのは、このドーハの審議に対する我が国のマスコミの報道の視点にです。 テレビも新聞も全ての報道が日本バッシングに対しての反論に始終しているのです。 農林水産大臣ですらインタビューにうろたえ、クロマグロが禁輸されたらえらいこっちゃと慌てふためいている情けなさである。 禁輸提案国のモナコ代表はこのままマグロ漁を放置しておけば、3年後に地中海のクロマグロは絶滅すると問題提起をしています。 ボクはその通りだと思います。 今、日本が地中海でやっている(他国にやらせている)クロマグロ漁は酷すぎます。 実はこの部分がなぜか日本では報道しないのですが、地中海のクロマグロ漁は成魚ではなく、稚魚を網で獲っているのです。 この稚魚を地中海沿岸諸国の海に牧場を作り、餌をめちゃくちゃに食わせて、日本人が大好きだと言う全身大トロの油デブマグロに育てているのです。 これは養殖ではなく、畜養と言います。 この殆どが日本に輸出されています。 畜養のお陰で日本人は回転寿司でクロマグロが食えるのですね。 でもね、クロマグロの稚魚を獲る時は巨大な網でクロマグロだけ獲れる訳ではありません。 他の多くの魚の稚魚も獲れてしまいます。こっちのほうが多いのです。 そしてクロマグロだけ大切に選別し、他の多くの稚魚は殺されて捨てられます。 この為に地中海は今、クロマグロだけでなく多くの魚が絶滅の危機なんです。 地中海の生態系が破壊されているんです。 いや、日本人が破壊しているのです。 ボクは地中海のクロマグロ取引停止に大賛成です。 他国に迷惑かけてまでクロマグロなんか食いたくはありません。 ボクはマグロが好きだけど、日本近海にだってビンナガマグロだって、キハダマグロだっているじゃありませんか。 フォアグラみたいに不自然に太らされたマグロをおいしいと言うのはバカなテレビレポーターだけだよね。 絶滅と言えば、日本人は江戸時代まではひとつの動植物さえ絶滅させないで共存した稀有な民族なんです。 それが百数十年後の日本は、世界中から自然破壊で軽蔑される民族に成り下がってしまったのです。 マスコミ人に心があるなら、この視点を報道するべきなのです。 今、この国はどうしてしまったのか? 何処へ漂流してしまうのか? このままではクロマグロと共に、日本人だって絶滅してしまいそうです。 今夜のドーハの審議が日本にとって2回目のドーハの悲劇にならないことを・・・。
強風の為に倒壊した。 ボクはその日たそがれ時に、このニュースに接し「やっぱりか…」と言う想いが心を満たした。 なぜかと言うと3月の初め、ボクは突然鎌倉の八幡様に行かなければと思い、出掛けてきたのである。 それは何十回目かの八幡様詣でであるが、その日ボクは生涯初めて御神木と一緒に写真を撮ったのだ。 その写真にはボクの背後から御神木が真っ直ぐ天に向かって屹立している。まるで高天原への天の橋立である。 この大銀杏は樹齢千年とも言われているが、いにしえの鎌倉幕府3代将軍 源実朝がこの銀杏の木の後ろに隠れていた公卿に暗殺された歴史を持っている。 歴史は巡ってボクの学生時代、この銀杏の大木がある八幡様の境内はボクたち悪がきの遊び場所であった。 ボクの高校は鎌倉学園で、建長寺の中にあり、学校の裏山をよじ登って笹薮の小道を行くと天園と言う素敵な高台があり、そこを南に下ると鶴岡八幡宮なのだ。 あのあたりは自分の庭のようなものだった。 だから当時からボクは八幡様と呼んでいる。 この銀杏の大木は境内でのカンケリの恰好の隠れ場であった。 この大木の下に集合し他校(逗子開成高校)の高校生と集団での大乱闘で機動隊に検挙された思い出もある。 機動隊に包囲されたとき、敵味方の区別なくこの大木の陰に隠れたっけ・・・。 その御神木がたった8メートルの北風で倒れたと発表された。 瞬間、ボクは非常に不自然な感覚に満たされた。 八幡様は本堂の北側の背後に山を背負っている。 だから北風には滅法強いはずだ。 さらに、本堂の階段下にある大銀杏は北風など微風程度にしか受け止めないはずだ。 大銀杏が風に弱いとしたら南側の海から表参道を真っ直ぐに引き裂いてくる南風だけなのだ。 でもあの日は北風だった。 だからボクは北風に倒れたと言う簡単な発表に不自然さを感じた。 ボクはこう推論する。 御神木は自ら倒れたのではないのだろうかと・・・ 笑う奴は笑っても構わない、でもこの世には人間の道理など遥かに超越した自然のメカニズムが存在している。 科学が万能などあり得ないし、人間は万物の霊長などではない。 あの御神木に見詰められて生きてきたボクには、今回の出来事は神の啓示だろうと想う。 ボクの学問である想像工学的には八幡様は武道、闘いの神を祭っている。 その闘いの神が自らの御神木を倒したのは、何らかのメッセージではないだろうか。 例えば不安定な労働者たちに、例えば若者たちに、例えば弱者・敗者たちに戦えとのメッセージではないだろうか。 今、絶望的に衰退しているこの国を活性化させるための闘い。 少なくともボクは八幡様からそんなメッセージ・パワーを頂戴した。 倒壊した大木を蘇生させることより、不自然に倒れた意味を考えたほうが良いのではないだろうか。
式典の裏方で飛び回っていた若い先生たちの自己犠牲の奉仕も見事であった。 この学校の講師である自分が幸せを感じる刹那である。 今年の卒業生は336名。就職率は100%。どうだ!すげーだろ! ・・・と良い気持のまま一夜明け見詰めた新聞。 今日、4月からの高校無償化法案が衆議院文部科学委員会で可決された。16日の本会議でもすんなり通過だろう。 民主党が先の選挙を勝つために掲げたマニフェスト?…の目玉である。(マニフェストに?を付けたのは理由があるが、ここでは長くなるからヤーメタ) 民主党は夏の参議院選挙対策には何が何でも、この法案の成立が命題である。 それも良いだろう。 ボクは高校の無償化に反対ではない、その根拠もないし。 しかし、絶対民主党政府を許せないのは、朝鮮人学校の除外である。 拉致問題が未解決、核武装している、国交が無いなど後付けの理由など理由にならない。 それらの問題の制裁として在日の北朝鮮学生に凶器の眼を向けるのは間違っている。 在日北朝鮮の子供達に何の罪があるというのだろうか。 第一、彼等は望んで在日と呼ばれる存在になったのではない筈だ。 今の政治家が触りたくない深く暗い歴史があるのだ。 これを民族差別と呼ばずに、差別を論ずるべきではない。 いつからボクたち日本人は、これほど心が貧しい民族に成り下がってしまったのだろう。 今、東南アジアの国々の学校では日本語クラスが続々と廃止になっている。 僕たち日本人は嫌われ始めているのだ。 北朝鮮学校の生徒達に日本の大の大人たちが制裁を加えているのだ。 俺たち日本人が美意識として持っていた「武士の情け」はどこへいったのだ。 総理が「友愛の精神」だとか言っていたのはなんだったのだ。 不自然も良いところだ。 夕方になって政府は北朝鮮学校の教育内容を精査して決める…とか 言い出したが、そんな言い草は誰も信じてなんかいない。 こんな時こそ自民党が身体を張って阻止する時なのに、駄目党のおっさん、おばさん先生連中には無理だろうなぁ。 まぁこれでまた日本は世界の人々に軽蔑されるのは間違いないだろうね。
所詮、民主党も自民党も同じ穴のムジナ、国民の生活や苦悩など何処吹く風の連中なのだ。 この茶番のドサクサに官僚たちが権力搾取に蠢いてることも知らず。 例えば厚生労働省は・・・日本中の職場の禁煙化を勧めているのだ。 その為に労働安全衛生法の改正案を準備している。 禁煙を法律で決め付けようとしているのだ。 喫煙者の人権も煙草販売者の生活も無視した暴挙を平然と行おうとしている。 大体、合法的な喫煙を強権発動で封じ込めようとしているのだ。 この禁煙を法制化したら、間違いなく次は禁酒の法制化だろう。 世界保健機構が酒の広告と販売の規制に乗り出そうとしている。 厚生労働省はきっとその尻馬に乗るだろう。 冗談で言っているのではない。 現にイギリスではすでにこの法律が機能し公園や海辺で缶ビールなど飲もうものなら警察にしょっ引かれる。 断っておくがボクは酒も煙草もやらない。 自分のご都合で厚生労働省に難癖をつけているのではない。 民主主義を標榜する先進国は所詮、権力を絶えず増強させなければ統治できないのだ。これが民主主義のリスクかもしれないとボクは感じている。 民主主義はこのように異端の人間を排除する。 最近は喫煙者も少数派になりつつあり、異端者扱いされてきた。 だから排除するのだ。 異端を排除したら、その国の文化は死滅するだろう。 異論を排斥したら、社会の民度は低迷する。 今やこの国は皆で決めたことは正しいのだ。 この国の人民は赤信号も皆で渡れば怖くなくなっている。 この危険な国民体質が多くの冤罪事件をさえ助長している。 だから裁判員裁判は危険なのだ。 そんな国民を作っているのが、権力しか見ていない政治家連中であり、官僚でありその腰巾着と化したジャーナリズムである。 連日行われている国民無視の政治茶番と官僚権力の蠢き・・・ そのプロパガンダと化したマスコミ。 国家や資本家の勝者の論理のみが最優先され、庶民たちの尊厳は踏みにじられている。 この国は大崩落に向けて突き進んでいる。 それを不自然に感じない人は死んだほうが良い。 未来の子供たちの悲惨な生活を見ないで済むから。 不自然に感じる人は闘いを挑め。
これは正確には引退させられたのであり、日本相撲協会理事会の暴挙である。 せっかく貴乃花理事の初参加の理事会でこんな結論をだすとは・・。 結局、貴乃花も裏取引で票を集めての当選と言われてもしかたがない。悪く言えば談合があったのだと思う。 貴乃花を英雄扱いするのは間違いだ。 さて、朝青龍問題であるが、これは相撲協会と横綱審議委員会とマスコミによる明らかな人種差別であり、人権侵害だ。 今回の問題はまだ、朝青龍が殴ったと言う証拠はなにもない。 たかだか酔っ払いたちが悪ふざけした上での怪我じゃ無いのか・・・とボクは思う。 冤罪の可能性だってまだあるのだ。 それは横綱の品格の問題だと、バカなことを後生大事にのたまう似非知識人やマスコミ人も掃いて捨てたいほどいる。 品格?・・今の相撲の何処に品格があるのだ? 懸賞金と称する金を賭けて勝ち負けを争い、勝ったらその金を鷲づかみする相撲取りの何処に品格があるのだ? タニマチと称するスポンサーに纏わり付き金品を頂くだけの「ごっつ あん体質」の何処に品格があるというのだ? 協会の理事達に品格があるか? 相撲の勝負も知らない横綱審議委員のおっさん、おばさんに品格を感じたことがあるだろうか? 相撲が日本の伝統文化だったのは、ワンスアポナタイム昔々のお話である。 相撲は日本の神道に発した武道である。 横綱は八百万の神の一柱であり、だからこそ注連縄を付けているのだ。 その日本の神の座にキリスト教徒やイスラム教徒や仏教徒をつけても平然としている輩たちには分るまい。 国技であった相撲に外国人を入れた時に、相撲道は終焉し国技ではなくなった。 単なる裸の男たちの格闘技である。 民主党政府は直ちに相撲協会の財団法人認可を取り消すべきである。 落ち着いて考えれば、現在の相撲なんてこんなものである。 そこでやんちゃな朝青龍がなにをしたというのか? 朝青龍こそ潰れかかった相撲人気を支え続けた大功労者じゃないのか。彼がいたからこそつまらない相撲が何とか持ちこたえたのだ。 相撲協会こそ彼に感謝し、それなりの恩を返すべきである。 そして理事会と横綱審議委員たちこそ直ちに引退するべきだ。 早くしないと、この愚挙は国際問題にもなりかねない。 どう見ても、今回の決定は人種差別がチラチラ垣間見えるのだ。 モンゴル人は協会内で相当な虐めと差別を受けているのだろう。 今日、この問題で記者会見をした白鵬が涙を流す姿には非常な違和感を感じたのはボクだけではないだろう。 本日のこの不自然な出来事は日本人として大変に恥ずかしいことだと感じたのである。 ボクは前からここでも言い続けてきたが朝青龍が大好きなんだ。
大勢の方々からお叱りを頂き、感謝の念を持って再会いたします。 休んだ訳は簡単で、心に感じた「よしなしごと」を散漫に書き繕う事に嫌気が挿したのです。 バカなアイドルやタレントがブログと称して、てめえが食ったものなどを写真と共に書いている日記もどきと何ら変わらぬ己の姿が恥ずかしくなった訳です。 で、この一年はテーマを明確にして書いてみたいと考えました。 昨年から毎週末、日本中の神社を訪ね歩き、国とは何か?日本人とは何か?ボクとは何か?を見詰めてまいりました。 そして今、ボクに必要な…いや日本人に必要な思考の尺度はこれなんだ!と思い及んだのです。 「それは自然・不自然」と言うモノサシ・・・。 これこそ地球上でも日本人だけが持ち合わせている日本人固有のモノサシであり、感性であり、判断基準なのです。 今、この時代に起きている全ての出来事はこのモノサシで計れば、明確に判断がつきます。 政治、経済、事件、身の回りの雑事など全てに応用できます。 神代の時代から大自然と共に生きてきた日本人だからこそ持つ固有のこの感覚を蘇らせたいのです。 そこでまず、ボクが率先して「自然・不自然」のモノサシで様々な事柄を計ってみます。 題して、ニッポンの「不自然大全集」 その1は・・・ いつも大晦日の夜になると、不自然さに猛烈に腹が立つもの。 NHK紅白歌合戦です。 いや、唄ってる能天気な歌手達には罪はありません。 とんでもない輩たちは、NHKの職員・放送スタッフなのです。 何が不自然かってまず最悪は、毎回番組のエンディングで全歌手が唄う「蛍の光」です。 なんの為にあの場で超不自然な歌を唄うのか? 多分、日常エリート風を吹かせているNHK職員も経営陣も偉そうな番組審議委員のとっつあん方も、あの歌の出所を知らないのです。 「蛍の光」は明治初期に、イングランドの曲に作詞者不肖の詞をつけたものです。 作詞者が軍に加担するのが嫌で、名を隠したの為に作詞者不肖です。 何のために・・・それは北方領土や南方領土拡大の為に続々と若き兵士を送り込む為の軍歌なのです。 一番は国の為に死を賭して出兵する若者達を見送る内容です。 二番、三番と見送る情景が続き、四番の歌詞になると具体的になります。書いてみましょうか・・・。 千島の奥も 沖縄も 八島の内の 守りなり いたらん 国に いさおしく つとめよ わがせ つつがなく と言う、ものすごい軍歌であります。 この「蛍の光」を誰が何の為に大晦日に唄わせているのか、公開質問状でも出して聞きたいものです。 もっとも訳を知っている奴の差し金か、番組では四番は絶対に唄いません。 はやく何とかしないと、今年も卒業式などでも子供達に強制的にこの軍歌を唄わせてしまうことになります。 まぁボクは軍歌が好きだから良いんだけれどね。 更に、NHK関係者のみならず左翼的思想の有識者諸君にも聞きたい。 常日頃、日の丸は日本国国旗にあらずとか言ってらっしゃるが、あの 「紅白歌合戦」と称して紅組・白組に分かれての闘いには疑問を感じないのでしょうか? 紅白こそ、日本人を真っ二つに分断し、血を血で洗った源平両軍の闘いの御旗であったはず。 その悲惨な闘いの象徴である紅白は問題なく、何故に日の丸は問題なのか? この不自然さ、ボクにはさっぱり分らないのであります。
中でも一躍時の人になってしまったのが蓮舫議員である。 本来政治家は核心となる言葉を控えるのが性であるが、蓮舫議員は歯に衣きせぬと言うか、無邪気さというか、まぁ大陸の血も混じってる人だから少々日本人にはないアグレッシブな精神の持ち主ではある。 そんなことを輝く時の人に言うのは失礼かもしれないが、彼女とは昔馴染みなので許してくれるだろう。 蓮舫とは彼女がクラリオンのキャンペーンガールとして水着のピチピチボディを振りまいていた後、俺が担当したテレビ朝日の深夜の生放送「プレステージ」のキャスターに起用したのが最初である。 まだ碌にコメントも言えない女の子であったが、向こうッ気だけは強くて、どんなテーマ、どんなゲストでも物怖じしなかった。 それと甲乙・白黒ははっきりさせるのが好きな子であった。 このキャスターを始めて確か1年位後だったと思う。 蓮舫が所属する川崎エージェンシーの社長から、今後どのように進んだら良いかの相談を受けた。 そこで六本木のクローバーで蓮舫とお茶を飲みながら、彼女の今後について語り合ったことがある。 その時、俺はこう言った。 これからは自分だけの人生テーマを持つこと・・・例えば今後大問題になるであろう食品添加物、あるいは飲料水問題などは女性として良いと思うよ・・・なんてことをアドバイスした。 蓮舫は素直に聞く子で、それ以後キャスターとしてのコメントががらっと変化してきた。 機を見るに敏・・・かなり器用でフットワークは良いのである。 その彼女が結婚し、双子を生んでから子育てに人生テーマをシフトし、議員になって遂には時の人になった。 別に俺がどうこうした訳じゃないが、昔馴染みとしては、なんだか嬉しいのである。 でも若い時から敵を沢山作ってしまう性質の子だったのが少々杞憂かもしれないが心配かな。 それとバサバサ切りまくるのは結構だが、木を見て森を見ず…切り過ぎて心の貧しい国造りの手先だけにはならないで欲しいな。
綜合演出の俺が言うのも手前味噌に聞こえるが、今年も素晴らしいショーだった。 今年のグランドテーマは「リ・ニューアル」 文化やアートをクリエイトすることは、この国の先達の感性や伝統や魂を継承し、そこに新しい感覚をインプットすること・・・ 政治や経済・文化を含め今、この国に必要なのは革命に近いほどの「リ・ニューアル」なのである。 このコンセプトを全校学生が理解して、全員で見事にショーを創り上げたのである。 今回のショーの素晴らしさは、エンターテイメント性もさることながら、ショーを創る過程において、学生達が垣間見せた人間愛とも言える美しさであった。 数百人の学生がそれぞれの役割を分担して行う舞台ショーである。 華やかなモデルもヘアーメークも制作スタッフも観客整理・警備係り も、すべて学生である。 誰だって華やかな役割に付きたいだろう。 しかし、役割の分担と言う大儀の元に、それぞれが自己矛盾を克服し、更に自己犠牲まで発揮してチームワークを維持してくれた学生もいた。 最近の大人社会では死語に近い「自己犠牲の美しい精神」を俺は自分の教え子達に見た。 この喜びは筆舌に尽くし難いものがある。 これこそ国際理容美容専門学校が校是にかかえる「躾」教育の賜物である。 今年の「美翔祭」は数百名の一体感と何ものにも替えがたい崇高な精神である「若者たちの自己犠牲」を見せてもらった。 俺は自分の学生達を誇りに想うと共に、心から尊敬するのである。 みんな!どうもありがとう。
この命の中には知恵や経験や魂など大切なものが詰まっている。 これは地球上のすべての生物に共通した自然の摂理なのだ。 最近、人間だけがこの掟を破り、なんと自分の子供や家族だけに金や地位や権利を継承することだけに汲々とする哀れな奴らがいる。 それも小金を溜め込んだ、企業成金に多い。 そんな晩節を汚すことが無いようにしたいと思っているが、俺は若者たちに何を残し、何を継承していくのかが定まらない。 それを見つけるために、今年から毎週のように神社巡りの小さな旅を続けている。 日本の大きな神社とその周辺には、出雲・大和時代からの長い歴史と 大自然、町並み、人々の生活が微かに残されているからだ。 そのかけらを拾い集め、自分なりの生きた証と目的を確認したい旅なのである。 昨日は千葉県の上総国・一ノ宮の玉前神社へ行って来た。 JR京葉線特急「わかしお」で上総一ノ宮駅で下りると小雨だった。 バスが三台も来たら身動きできないほどの駅前広場、店も駅前食堂と花屋が数軒、おまけに人の姿がほとんどない。 玉前神社へ7分の標識を見ながら町を歩く。 雨だからか歩行者もなく、小さな町並みを見ながら玉前神社に着く。 この神社は上総国の一ノ宮だけあって1200年の歴史があり、大社造りの拝殿も本殿にも大切に守ってきた人々の想いが感じられる。 本殿裏手の神木も見事な歴史の威容を見せている。 この地は縄文・弥生から人々の営みがあったところで、静寂に耳を澄ませると往時の古代人の囁きさえ聞こえるようだ。 玉前神社から雨の中を南へ30分ほど歩くと海へ出た。 駅前から海へのバスは一日に3便しかないのだ。 ここは房総半島の九十九里浜最南端である。 雨の浜は北風が舞い、不規則に潰された波が荒い。 砂浜に傘を差して彼方の沖合いを見詰める。 太古から延々と続くこの大自然の営みの中で、人間はいったい何を見つけたと言うのだろう。 万物の霊長などと大見得を切って、何をしてきたのだろう。 科学・化学万能の時代と胸を張っても、インフルエンザひとつに日本中が右往左往するだけである。 アメリカでは40%以上の母親達が我が子への予防注射を拒否している。副作用が怖いのだ。 日本ではそんな情報もなく、2回摂取だの1回だのと先を争って大騒ぎである。 科学など信じてはいけない。 大切なのは、自分が生きていく上で自然か不自然かを見極める魂なのだ。その物差しを持っているのは日本人だけである。 これも古代人から受け継いだ日本人固有の宝物なのである。 帰りに駅前のひなびた食堂で食べたチラシ寿司がとっても美味しかった。
確かに俺も最近は裁判所通いが楽しみの一つではある。 で、先週は20日に霞ヶ関の東京地方裁判所へ行ってきた。 先月、答弁書すら出さず闘う姿勢を示した被告との2回目の公判だ。 東京地裁では、19日は高相被告、20日は俺、21日は押尾学被告と続いていて笑っちゃうね。 もっとも19日や21日の地裁玄関前は報道陣と傍聴券を求める人々で、朝の新宿駅のような雑踏であったが、俺の20日は玄関前に一人もいないと言う寂しさ。 だからその寂しさを携帯カメラで撮ろうとしたら警備員数名がすっ飛んできて止めろと言う。 「報道陣は良くて、なんで俺はだめなんだ?」 と悪態をつくも無視された。 まぁ同じ裁判でも高相・押尾両名は被告、俺は原告…この違いは精神的に大きいね。 でも麻薬取り締まりは難しい事件だ。 正直言って二人とも、いや酒井法子にしても自分が悪事を働いたとは思っていないだろう。 現に今、麻薬を使っている多くの人間達もそうだろう。 心の中では、酒はどんなに度数が強くても、中毒になっても罰せられず、タバコも同様である。 麻薬と酒類の違いはなんなのか? 大麻と煙草の違いはなんなのか? 知識人を自認するお偉い?方々には、甚だ子供じみた意見に見えるだろうが、庶民レベルとはこういうことなのだ。 サプリメントやドーピング違反とされる薬品類や健康食品だって同じことが言える。 それぞれの径庭は誰が何の基準で決めたのか?が判然としないのだ。 渋谷や新宿の街へ出て、通りすがりの若者に聞いてみればわかる。 麻薬の入手方法など分っている奴のほうが多いくらいだもの。 と言って、俺は麻薬など肯定しているのではない。 現に俺は麻薬どころか酒も煙草もサプリメントすら口にしないのだ。 俺の筋肉はドラッグレスである。 まぁ話が長くなったが、麻薬と人間の付き合い・・・これは簡単な問題ではないのは確かだね。 で、俺の裁判に戻る。 第二回目の今回、法廷は前回と同じ6階の608号法廷、裁判官も前回と同じ眼鏡をかけた柔和な顔の小太り中年さんと書記官は気の強そうなアラサーって感じの女性コンビだ。 相手の被告は答弁書を出してきて和解を申し出てきた。 裁判官は「これで結審の方向でどうですか?」 と聞いてきたが、俺は不服を申し立て、今回も膠着、来月の法廷を取り決めてあっけなく終わりだった。 この日、数時間後に被告の相手より直接連絡があり、更なる和解条件を提出してきた。 でも、俺はそれも却下した。 そして新たな条件を提示して、一週間の答弁猶予を提供した。 多分、これで和解条件は整い、来月の法廷で結審するだろう。 今週はもう一件、少し大きな相手との裁判がある。 このワクワク感はいったいなんなのだ?
長門裕之さんから重態な病であることは伺っていたので、まもなくこの日が来ることは感じていた。 ボクが南田洋子さんと初めてお会いしたのは1970年代、フジテレビの音楽番組ミュージックフェアだった。 長門裕之・南田洋子夫妻が司会進行役でボクは駆け出しの構成作家だった。 三年ほど番組をご一緒したが、南田洋子さんはすばらしい気遣いをされる方で、金の無いボクらスタッフにしばしばご馳走をしてくれた。 六本木の会員制クラブ「TCK CCC]のレストランによく連れていって貰ったのが、昨日のように思い出される。 南田洋子さんは長門裕之さんよりも一歳年上の姉さん女房である。 金のわらじを履いてでも見つけろと、男どもには合言葉もある、一歳年上の女房なのだ。 確かに南田さんは女としての気風が最高だ。 こんなことがあった。 南田さんと京都へ旅番組のロケに行ったときだ。 夜、宿舎の旅館に当時、遊び人の旦那・長門裕之さんが尋ねてきた。 京都の舞妓さんと遊びたいので金を貸して…と言うことだった。 すると南田洋子さんはバッグから分厚い財布を取り出すと、そのままポーンと渡したのである。 さすが姉さん女房だ!とボクは感動したのを思い出すのである。 この旅番組では、南田さんの優しさを実感した強烈な想い出もある。 TBSの全国ネットで始まったこの旅番組のスタートは1990年代。 この頃、ボクはプロデュサーになっていて初回放送のゲストに南田洋子さんを起用し、京都ロケを組んだ。 京都ではテレビ初取材の高級料亭「吉兆」などと話をつけて取材した。テレビの食べ歩き旅のはしりのような注目番組だった。 しかも撮影は当時、最先端のENGカメラを使っての画期的な番組だったのである。 初回のその取材は無事に終わり、東京に戻ってプレビューしてぶっ飛んだ。 すべての画面にノイズという信号が入っていて、とてもオンエアできる作品でなない。 現場ではENGモニターが小さく、技術者がノイズをチェックできなかったのだ。 ボクは南田洋子さんに顛末をお話して、再度京都ロケをやらせていただいた。『吉兆」などにも頭を下げられるだけ下げて了解してもらったのである。 今度は現場でノイズチェックなど充分にやった。 そして帰京して、編集所で腰を抜かした。 なんと今度は音声が入っていなかったのである。 これじゃ放送できない。 もう一度撮影も不可能・・・。なにしろ放送3日前なのだ。 頭を抱えたボクに浮かんだのは、アテレコ・・・。 つまり自分のクチパクに台詞を録音していくのである。 映画などではよくあるが、旅番組の喋りは台本のない、フリートークである。これに台詞をかぶせるのは前代未聞のことである。 ありえないことなのだ。 それをボクは南田洋子さんに土下座しお願いした。 「分った、すぐやろう」 南田洋子さんは嫌な顔ひとつせず、むしろ落ち込んでるボクを励ます言葉さえかけてくれたのである。 こうして今日までボクのテレビ生活40余年の中でも最大のトラブルも、南田洋子さんのお陰で無事放送することが出来たのである。 今、ボクは秋の夜空に旅立っていかれる南田洋子さんに、そっとお声をかけた。 「洋子さん、ありがとうございました・・・」
自殺と言うロス市警の発表であった。 その日の夜から三日ほどテレビや新聞、雑誌マスコミの取材にに追われたが、ボクはキチンと対応し、同じ言葉を繰り返した。 「三浦和義は自殺などしていない。その根拠はこうだ」と・・・。 しかし、いつものようなマスコミの国民への意識誘導記事でなんとなく自殺説で世の中は落ち着き、この大事件は忘れ去られている。 様々な事件は次々と起こるから、仕方のないことではあるが、ボクたち支援グループは決して忘れもしないし、行動を緩めもしない。 ロス市警とはマーク・ゲラゴス弁護士チームが丁々発止の駆け引きの最中である。 一年たってもロス市警が留置場の内部や自殺とする仔細な情報をなんら提出してこないのは、向こうに非がある証拠だろう。 わが国の司法当局が、それをアメリカに請求しないのも、日米間に犯罪捜査に関する密約があるとしか思えない。 そのことはボクはレポートにしてアメリカサイドに提出してある。 日本がアメリカの法体系に合わせる義務など無いはずである。 この国は尊厳も理性もある独立国なのだから。 政権も新しく変わったのだから、ぜひ司法の情報公開を望みたい。 でなければ、最高裁で遂に無罪を勝ち取った男のプライドと無念を晴らせない。 三浦和義さんの一周忌にあたり、ボクは残る人生のライフワークのひとつとして、いつまでも彼の無念を共有する。 この一年前の出来事は、単に一人の男の死ではなく日本の未来を左右する重要な大事件なのである。だからボクは闘う。
その前に先月の後日談であるが、あの訴訟では被告の答弁書に記載されていた和解条件を俺が却下して、次回裁判が10月初旬になったのだが、面白いことに、その当日の夕刻、被告側の弁護士より降伏和解の申し出があり、無駄な闘いは好まないので提訴を取り下げた。 さて先月、俺が更に別に2件の提訴した裁判が東京地方裁判所で行われた。 今度は霞ヶ関の地裁である。 地裁ビルの玄関には報道カメラマン達がスタンバイしていた。 今回の俺の訴訟はニュースになるほどの事件ではないのだがと思っていたら、これは例の「のりぴー」が保釈になる日で保釈金の納付を待っていたのだった。暇な奴らだねー。 この地裁のあるビルは地上19階、地下3階、ここに簡易裁判所、地方裁判所、高等裁判所が入った3庁合同庁舎。 地裁だけでも3フロアーに90室の法廷があり、全部では150法廷あるそうだ。 まず玄関から入るや荷物検査で金属類のチェックがある。パスしてロビーにはいると300名ほどの人が、自分の法廷を探して大騒動である。 無理もない、ここには1日平均1万人の人が来るそうだ。 世界でも有数の裁判所らしいが、まぁそれだけ東京には事件や訴訟が多いのである。 今回、俺が行ったのは608号法廷、其処に入ると18席の傍聴席は満席だった。 正面奥に小柄でおとなしそうな顔をした裁判官、一段下の席には中年の眼鏡をかけた気の強そうな女性の書記官、それに庶務という構成。向かって右側が被告席、左側の原告席には今回も予算節約の為本人訴訟なので俺一人である。 ここで2件の訴訟を続けてやることになっていたが、被告Aは昨日までに全面的降伏和解の申し出があり、俺も同意したので取り下げ。 被告Bは無謀にも全面的戦いを挑んできた。俺の訴状に答弁書すら出さない傍若無人ぶりである。 これは面白い。この日の法廷では埒があかないので、裁判官申し出により、次回法廷は10月中旬となったのであった。 今回の一連の裁判はすべて俺が原告であり、更に弁護士いらずの本人訴訟である。 天国で俺の朋友・三浦和義さんも大喜びしてくれるだろうな。 今月は更にもう一件の訴訟も決まった。 今度の相手は少し大物であるし楽しみだ。 俺はもうほとんど裁判に病み付きである。 俺は作家だから当然これらは文章化して出版する予定である。 編集者がこれを読んでいたら、はやくリーチしたほうがいいよ。 この後も法廷に引きずり出したい奴が数名いるから。 では、次回の裁判報告に、乞うご期待!
環境を招致のテーマにすること自体馬鹿げているのに、それをお祭り騒ぎのように報道したマスコミにも猛省を促したい。 石原都知事の魂胆はミエミエだった。 環境をテーマにすることにより、環境ビジネスでボロ儲けを企む企業と大手広告代理店と放送局と自分の息子親族の金儲けの為でしかなかった。 東京オリンピックで環境がテーマだと・・・とんだお笑いである。 あの猪瀬直樹副知事まで、わざわざ難しい顔をして「オリンピックの16年には東京を走る車の60%はハイブリッドです」だと。 そんなことオリンピックに関係なく政治家ならやることだろうが。 猪瀬も次期都知事の座を狙ってるから石原の犬と化してきたのが面白い。 そんなことはどうでもいい。 東京都民の大部分の庶民が全く望んでいなかった五輪招致に、税金から150億円も使った責任はどうとるのだろうか。 個人の権力を振り回し、こんな暴挙は考えようによっては犯罪に等しいと俺は思う。 石原知事は自分をどんな人間だと考えているのだろう。 彼が思うほど都民は尊敬も畏敬もしていない。 彼も最近巷にゴロゴロしている小金持ちの裸の王様である。 今回、その王様に摺り寄り、オイショとオベンチャラでお愛想を振りまいた一部のアスリート達と芸能人達も同罪である。 お前さんたちが懐に入れた高額なギャラは都民の涙の税金であることを忘れては困る。いったい幾ら貰ったのだ? ボランティアなら少しは許すが、そんな奴はいないだろう。 今回、湯水のように使ってくれた150億円の税金、その使い道の細部まで公表させなければ、都民の気持は治まらない。 石原知事は個人財産を投げ出しても責任を取るべきだ。 それが権力者の運命なのだから。 奢れるものは久しからずである。 もう一つ、今回の東京五輪のコンセプトテーマである「環境ナントカ云々」は多分大手広告代理店が提出した企画書だろうが、どれほどの大金が支払われたのだろう。あんな馬鹿げた浮世離れした企画に。 せめてこの日本が世界にオリンピックの開催を招致したいのなら、そして俺が企画プロデューサーなら、テーマは「地球上からの核廃絶&永久の平和の為に」 開催場所は「広島&長崎」である。それしかありえない。 民主党も政権を執ったのなら、そのくらいは考えるべきだ。 鳩山首相が尻尾振ってコペンハーゲンへ行くべきだは、断じてなかったのである。 その程度の政府じゃこの国は危ういね。
行ったのは初めてではないが、今までは友人や仲間の応援の為に傍聴席にはよく行っていた。 しかし、今回は原告で、しかも弁護士費用がもったいないので本人訴訟である。 東京地方裁判所立川支部401法廷 武蔵野の面影が残る立川の郊外にある新築の裁判所のビルは、冷たい感じはなく温かく俺を迎えてくれたって、それは俺が原告だからだろうね。これが被告だったら氷のようなビルに見えるのだろう。 意外だったのは、セキュリティがゆるく派手なジャケットの俺を咎める人も居らず、身分を明らかにする必要もなかった。 50人は入れそうな法廷には正面奥に裁判官、その前に書記官が座り、向かって左側に原告席、右側に被告席がある。 まず裁判官より俺への本人確認があり、被告の答弁書を開示し、提示された和解条件を承諾するや否やの質問があった。 俺は即座に和解提案を拒否した。 で、今回の審理は終了、次回審理日時を決定すると言う、実にスピーディな裁判であった。 本人訴訟の裁判は面白いとは、我が朋友である三浦和義さんからしばしば聞かされていた。 彼はロス疑惑の件では、本人訴訟で連戦連勝だった。 「弁護士いらず」なんて本まで出版している。 確かに、こりゃ面白い。 実はこれに味をしめて、今月はあと2件も俺が提訴した裁判があるのだ。 勿論すべて俺が原告の本人訴訟である。 そして、今後も提訴したい輩が複数いて、準備に入っている。 心当たりがある方は首を洗って待っていてくれ。 いやぁー、本人訴訟の裁判は面白い。 すっかり病みつきになってしまったよ。
今週はテレビも新聞・雑誌も同じような評論屋さんや自称キャスター(俺は彼らをキャスターとは思っていない)たちが、同じような話で時間を浪費している。 今だけは民主党への期待感で皆さん互助会のように話を合わせているが、なに、その内悪口を言い始めるに違いな。 今回、政権交代が国民の目的ではないのだ。 民主党政権になっても世の中、変わりはしない。 政治家が替わっても、既にこの国では集団の最小単位である、家庭や地域、職場・学校の生活・環境が破綻・崩壊しているのだ。 政権交代しても国政レベルではもう、どうしようもないところまできてしまっている。 しかも民主党になっても、申し訳ないが政治家たちの志やレベルは自民党と変わりはしない。 ますます独裁政治色が強まるだろう。 今、俺たち国民がすべきこと・・・それは国政にたずさわる政治家の質を根本から変えることだ。 政治家を職業ではなく使命として志す人々にチェンジしなければいけない。 テレビのバカな番組で顔を売るような輩はもっての他である。 だいたい選挙演説で「お願いします」だの「助けてください」だの土下座までした奴等は国政に携わる資格などない。 本来、政治家とは有権者が土下座しお願いしてなっていただくものなのだ。 「私たちの生活のために、どうぞ政治家になってください。お願いします」とこちらから願う存在が政治家なのだ。 そんな政治家が民主党や自民党にいるのだろうか? その政治家の使命を最も具現化しなければならない存在が、共産党であり、社民党であり、公明党だと思うのだが、彼らはそんな哲学すら持ち合わせてはいない。 我々、国民が政権交代の次にやることは、政治家の交代である。 自民党をぶっ潰した力で、今の政治家達をぶっつぶす事である。 その策を一つ提案したいが、長くなったので次回にします。 乞う!ご期待って…誰も期待してねーか・・・。
革命記念日にしなければいけない。 この好機を逸しては絶対にいけないのだ。 今回の衆議院議員選挙は単に保革が逆転し、民主党政権の樹立が国民の目的ではない。 そんなことは、今の自民党員の堕落振りをみれば当然で、国の明日を考える政治家など皆無なのだから。 しかし、830を政権交代だけの記念日で浮かれてはいけない。 戦後、初めてと言っていい大改革を大革命へのスタートにしよう。 自民の一党独裁とも言える悪癖、悪政はこの国の社会すべてを汚染してしまった。 各企業のトップを見れば明白である。 殆どがトップの独裁ではないか。 特に一代にして功なり名を遂げたなんて成金の輩が最悪である。 貯えた金力や権力は、自分の力量のなせる業の如く錯覚している。 社会は本来、すべてが平等に出来ている。 独りに金力や権力が集中したら、そいつの足元で大勢の人々が辛い思いをし、泣いているのだ。 企業の独裁者にはそれが分っていない。 更に金力や権力はまっとうな方法では集まらない。 殆どが公金横領や詐欺を会社ぐるみでやっているのだ。 今こそ、これを許してはいけない。 雇用や福祉の破壊なども、国だけの問題ではない。 もっと末端の企業レベルでのとんでもない格差の創出こそ問題なのだ。 830 この日から、一人一人が内部告発、外部告発をして悪辣な経営者を叩きのめそうではないか? 俺にもどうしても許せない悪の権現のような経営者がいる。 830 この日こそ、国家の政体を根本的に改革し、一人一人の社会生活に重大な変革をもたらそうではありませんか。 庶民の革命まで、あと一週間である。 善良な国民は総決起せよ!
すぐさま1975年に新伍さんを司会役に起用してテレビ東京(当時は東京12チャンネル)で作った番組「独占・男の時間」のプロデューサー 彦坂さんに電話したが、なんと「彦さん」まで入院中で驚いた。 山城さんが体調を崩し施設で孤独な生活をしているのは知っていたし、面会にも行きたかったが、なにしろあのカッコマンの新伍さん、 惨めに衰えた姿は見せたくなかったのだろう。 いつも体よく断られていたのである。 でも俺は新伍さんの死が近いことは、その言葉で感づいていた。 彼は最後は再び正義の味方で色男の白馬童子でいたかったのだ。 だからそっとしておいた。 新吾さんとの付き合いは、京都の撮影所を食うや食わずで上京してきた75年ごろ、俺の企画の「独占・男の時間」の司会進行役に抜擢した時からである。 この番組は当時当該放送局では珍しいほどの話題の番組になり、山城新伍の名も再び世間に轟いた。 その後も二人で数々の悪さもし、世の中と大喧嘩もしてきたがそのエピソードは俺が今、執筆中の俺の自伝に書き込むつもりなのでここでは割愛。 今日、新聞各紙を取り寄せたが、新伍さんの死亡記事は全紙バカの一つ覚えのように共同通信からの配信記事の垂れ流しで、すべて同じであった。 せめて親友だった梅宮さんや松方さんの談話くらい欲しかったよね、新伍ちゃん! じつは新伍さんは俺より年上であるが、出会いのときから「新伍ちゃん」と呼んでいた。 でも今日は各紙・各局いきなりの情報で間に合わなかったのだろう。 明日はきっときちんと大スター並みの報道をしてくれるはずだよ。 だから新伍ちゃんは白い馬にまたがって天空を飛びまわって、あの世ででかいツラしてる奴らをバッタバッタ斬りまくってくださいね。 ではさようなら・新伍ちゃん。
靖国の夏、今年も森の中は溢れんばかりの蝉の声だ。 この国の為に散華した人々が今年も靖国に帰って来た、蝉となって。 拝殿に二拝二拍一拝し、空を仰ぐ。 東京の空は涙を溜め込んだような厚い斑雲が北東に流れていた。 ボクは毎年8月に靖国神社に参拝するが決して思想的な感情からではない。 右翼思想を持つ友人も沢山いるが、極左翼の友人もいる。 ボク自身の思想は偏ってはいないと思っている。 純粋にこの国を想い、家族を守り、愛する人の為に散華していった英霊たちへの感謝の気持からなのだ。 彼ら、彼女らの自己犠牲があってこそ、今日のボクの命があるからだ。ボクの命は名も知らぬ人々の犠牲の元にあるのだから。 靖国では今、「矢弾丸尽きるとも、我レ生還ヲ期セズ」と言う催しをやっている。 若くして散華していった学徒たちと、その家族、友人たちの魂の記録展である。 ボクは彼らの遺品や写真の前で立ち止まり、心からの敬礼を捧げた。 まもなく15日が近付きマスコミや政治家が靖国参拝の是非をバカの一つ覚えのように騒ぎ出すだろう。 選挙運動のひとつに利用する輩も現れるに違いない。 靖国はそんな奴らの為にあるのではない。 純粋にこの国を憂い、国の誠を次世代に継承する人々の為にあるのだ。 万鳴の蝉時雨が今日も靖国神社の森に木霊していることだろう。
ちょうど今頃は、地裁に集合させられた73名の候補者から6名の裁判員と3名の補充裁判員の選任が行われているだろう。 こうして本日から4日間で結審させようというのだ。 今回の東京足立区で起きた殺傷事件では被害者の遺族も参加する「被害者参加制度」も合わせて行われる。 ところでこの裁判員制度に反対する人々が多いが、ボクもその1人である。 ただしボクの反対の根拠は司法の専門家の方々とは違う。 まずボクはこの日本では裁判員制度は絶対に馴染まないと思うのだ。 人を裁く裁判員や陪審員には必ず責任がある。 人が人を裁き、それが誤審、冤罪の場合、どう責任をとるのか? この場合、責任の放棄は出来ないのだ。 しかし、一神教の国の人々はそれが許される。 自分の行い・過ちを懺悔し神のお許しを得ればよいからだ。 だからキリストやイスラムなどの一神教の国々の人は、裁判に入る前にそれぞれの聖書をかざして神に誓うのだ。 裁判員や陪審員は神の名において行っているのだ。 だから判断が誤っても責任や自戒の念を回避できる。 しかし、ボクたち日本人は多神教である。 神と約束しようにも、神様が多すぎちゃって、どの神様が担当なのか分らないのである。 やおよろずの神の国、日本には絶対神がいないのである。 天皇は神ではなく、象徴になってしまった。 だから最後に天皇にすがりつく訳にはいかない。 日本には絶対神がいなくなってから、国民の心のボーダーラインが希薄になってしまった。 そこで近世になって中国の助けを借りて、孔子・孟子などにお出ましいただき論語を指針にしたりもした。 しかし、先の大戦で中国との仲もおかしくなり、論語を人生の指針にする人もすくなくなった。 多神教の日本人の心は今、漂流しているのである。 今、この国に必要なものは確かなリーダーであり、明確な国民のアイデンティティなのだ。 政治とはそれを考え作り出すことだと思うが、この国には国を憂う政治家など皆無である。 今月の選挙で保革が逆転しようとも、何も変わらないだろう。 こんなに国の基盤が確立していないのに、裁判員制度である。 この国がますます混乱して行く。 日本列島の大漂流時代である。
しかしボクは「自殺」と言うネガティブな言葉でのみ報道するマスコミの姿勢があまりにも短絡的で嫌いだ。 自らが自らの意思で命を収めることを「自殺」と言うのだろうか。 それが妥当とするのなら、人間の死には「自殺」と「他殺」しかないではないか。 では病院での死亡は「他殺」なのか? そんなばかなと言うのなら、ではなんと言うのだろう。 まず「自殺」と言う言い方が命の尊厳を踏みにじる言葉なのだ。 「自殺」なんて言い方は昔の文献にはなく、自害、自刃、自尽などと言っていた。 つまり命を納める方法によって、言い方の違いがあるわけで、ボクたちの国では死も文化なのである。 つまり「自死」なのであり、それ以外は「他死」なのだ。 「他死」の中に「他殺」も含まれると考えるべきである。 ボクは「自死」願望である。 自らの意思で己の命を収めることは決してネガティブ思考ではなく、むしろポジティブな生き方である。 死に方は自らの生き方なのだから・・・。 ボクは身近な人々にも「自死」をすると伝えてある。 絶対に「他死」は嫌なのだ。 実はこのような話を生前の阿久悠さんとよく議論していた。 阿久悠さんも自分のフィナーレは自らの意思で緞帳を降ろしたいと言っていた。 そして2年前の今日、夜明けが近いかわたれ時、阿久悠さんは人工呼吸器と点滴器具を着けたままベッドから下り、カーテンを開けた窓際のリクライニングチェアーに座って静かに鼓動を閉じていた。 「自殺」「他殺」『自死」『他死」・・・阿久悠さんの「死」はなんだったのだろう。 「病死」なんて言ういい加減な概念に当てはめるのはナンセンスだ。 阿久悠さんが命を収める三日前に、病室でボクに渡したメモがある。 彼はしばしばメモをボクに渡していたのである。 そこには筆圧を失った弱弱しいサインペンの文字で・・・ 「かわたれどき・逢魔が刻・・・」 と書いてあった。 阿久悠さんは何が言いたかったのだろう。 ボクは知っているが、今はまだ言いたくない。 阿久悠さんの三回忌の今日、ボクは独りで静かに過ごしている。
ボクが当初から担当させていただいていた公園の歌姫・歌手あさみちゆきさんの今秋のコンサートの演出を、今回は降りてくれと言うことだった。 言ってきたのは、あのメジャーなテイチクレコード。 理由は今回のコンサートの楽曲に阿久 悠さんの作品を使うにあたり、阿久悠さんを7年間看病し、その闘病記「勝手にしやがれ」を書いた著者のボクが気にいらないと言うのだ。 なんでレコード会社がそんな人権を無視した行動に出たのか? 不当な理由で仕事を取り上げるのは、完全に人権問題である。 ボクは今、「人権と報道・連絡会」のメンバーであるから、当然この問題はテーマとして追求させていただく。 それは今後のこととして、この問題には続きがある。 どう考えてもレコード会社がボクの著作「勝手にしやがれ」にクレームを付けるのは変ですよね。 調べたら、僕をコンサートの演出から引きずり下ろすことを、阿久悠作品をコンサートに使う許可の条件にしたのは阿久悠さんの音楽著作権を管理している某社であった。 某社がテイチクレコードに言わせたのです。 某社と言ったって、ボクのことを知っている方々なら某社がどこの会社かは明白でしょう。 そうボクが40年も所属していた、あの会社です。 ボクが阿久悠闘病記「勝手にしやがれ」を書いたことが気にいらないのです。 この本を読んでいただければ、お分かりですが ボクが阿久悠さんを人間として描いたことが許せないのでしょう。 なぜなら作詞家・阿久悠にまとわり付いている連中は、阿久悠をいつまでも作詞界の怪物として偶像化しておきたいのです。 そのほうが歌が売れて儲かると考えているのです。 音楽と言う文化を経済でしか考えられない連中です。 悲しいことです。 末期癌で苦しむ阿久悠さんはいつもボクに言っていました。 「おれは贅沢も嫌いな普通の人間なんだけどなぁ」とか 「病気になったら誰も来やしない」とか。 もっとも余命のカウントダウンになったら、どっと押し寄せてきた輩の貧しいツラのなんと醜かったことか・・・。 そんな奴らが今も阿久悠の楽曲権利を奪い合い、阿久悠さんを人間として書いたボクが許せないというのです。 弱肉強食の寒々しい社会を作ったのは自民党の腐敗政治だけではないのです。 日本の音楽と言う文化の現場でも、人間の優しい心を無視したケダモノたちが跋扈しているのです。 ボクは日本の子供達にこの国をキチンと引き渡すために、こう言う問題に目を瞑るつもりは毛頭ありません。 ただし、可愛いあさみちゆきさんとスタッフ、製作現場の人々に迷惑にならぬよう、コンサートの演出の仕事からは手を引きます。 残念ですが・・・。でも闘う相手が明確になって良かった。 あと2時間で8月1日…あすは阿久悠さんの三回忌です。 ぼくはなぜか呼ばれておりませんが、天に向かって一人で合掌します。
18年も無実を叫び続けて闘ってきた男の姿は垣間見えなかったのだ。 むしろ人間の尊厳も生きる力さえ抜き取られたような男の残像としかボクには感じられなかった。 ご自分が発言する時意外は、いつも下を向くか虚空に目を彷徨わせていた。 事件の概要や検察の取調べなどは、弁護士の佐藤博史さんが丁寧すぎるほど語ってくれたが、そんな時でも菅家さんは下を向き、目を閉じていた。 18年ぶりに出てきた社会も、菅家さんにとっては決して自由なんかではなく、毎日がマスコミや世間の人々に晒され拘束された日々なのだろう。 佐藤弁護士が無実の弁償にどう熱弁を振るっても、ボクはこの足利事件を云々する立場にはない。 そこまで事件の概要を知らないからだ。 しかし。冤罪被害の残酷さは痛感している。 三浦和義さんのご紹介もあり、多くの冤罪被害者の方々にお会いする機会を得たが、すべて無残な事件ばかりであり残酷な人生を抱えた人々である。 そしてその事件にはまた、被害者と言うもっと残酷な人生を背負わせられたご家族たちがいるのだ。 だからこそ冤罪を作りだしてはいけない。 その冤罪作りにマスコミが大きく加担している現況は異常である。 18年前、あれほど足利事件の菅家利和さんを鬼畜のように報道していたマスコミが今、確かな謝罪もなく英雄の如く扱っている。 背筋が凍りつくようなこの現実も、今こそ打破しなくてはならない。 小さな権力や金力を守ろうとする、心の貧しい人間達はまず、身近な人間を疑い、悪者に仕立て上げる。 冤罪の温床は日常のそんなところから出来上がるのだ。 冤罪を作り出す輩を絶対に許してはいけない。 冤罪は僕らの生活の中まで進入してきているのだ。
この二人には重大な接点が二つあります。 いつも目先の事件に追われ、俯瞰で世の中を見詰めることをしないマスコミやテレビキャスターや社会評論屋にはわからないだろうが…。 一つは両者とも全く不可解な死亡にも係わらず、警察や司法、マスメディアが踏み込んで調査しようとしないこと。 二つ目は両者の顧問弁護士が同じマーク・ゲラゴス弁護士だと言うこと。 三つ目は両者ともロサンゼルス郡検視局で司法解剖されたこと。 四つ目はその解剖結果に時間がかかり過ぎ、不信感を持たざるを得ないこと。 三浦和義さんの正確な結果データは八ヵ月後の現在もまだ知らされていない。 マイケル・ジャクソンさんのデータは5週間以上かかると発表された。三浦さんの時と同じで結局まだ情報提供されない。 五つ目は両者とも遺族がロス郡検視局を信頼出来ず、外部で独自のプライベート検視を行い、双方のデータを照らし合わせようとしていること。 今回、マイケル・ジャクソンの弁護団がこのような行動をとったことは三浦和義さんの事件が重要なモチベーションになっていることは疑う余地が無い。 ロス市警や検視局はとても信頼できないからだ。 三浦和義さんの件など、8ヵ月後の現在でも何の依頼調査資料も示されていない。 首を吊ったとされる二段ベッドやシャツなども情報提供されていないのだ。 和義さんの指にあった結婚指輪さえ奥様に戻ってはいない。 今回、マイケル・ジャクソンさんの死が明らかにされることにより、三浦和義さんの死も決して自殺なんかではなかった事実が明らかになることを念じている。 マスコミのみなさんにも是非、今回の事件の真実を見詰めて報道して頂きたいのだ。
傍聴席のみならず高裁前で待機していた数千人の支持者からは、この不当な判決に対する怒りの声が燃え上がり、渦巻いた。 これは天地神明にかけて明らかな冤罪なのだ。 …しかし… 今朝のテレビ・ラジオ・新聞などはこの「JR浦和電車区事件判決」を報道していない。 足利事件の菅家さんを大きく報道していても、JRの事件はどこも扱っていない。 足利事件の菅家さんを十数年前、鬼・畜生のように扱った報道各社の責任などないかのようなお祭り騒ぎである。 昨日の高裁の判決が報道されないのには理由がある。 なんと昨日の法廷には報道席が2席しか用意されていなかった。 これは見えない権力が、暗に作用しているのだ。 「この事件は報道するな」・・・と。 この事件は明らかに国家が介入している弾圧事件だと、俺は思う。 事件、そのものは実に他愛のない何処の職場にもごろごろしている様な出来事なのだ。 それが巨大な労働組合「JR東労組」内で起きたから問題なのだ。 今、国家の見えない力学は、資本家に対立する正規の労働組合を弾圧し粉砕しようとしている。 60年続いた資本主義に刃向かうものは潰す…これが見えない力であり 国家の力学である。 政権交代寸前の民主党に致命傷を突きつけた小沢一郎の秘書逮捕。 三浦和義さんの命をアメリカに売り渡した司法取引。 JR浦和電車区事件の控訴棄却。 これらは皆、国家権力が介入しているのだ。 戦後から今日まで、国家権力に対する市民の闘いは数限りなくある。 以前と違うのは報道の大多数が権力サイドに取り込まれていることである。 だから冤罪事件が次々に起こる。 冤罪事件に報道が加担している国が、他の先進国にあるだろうか。 俺達は北朝鮮を暗闇国家・独裁国家と非難出来るのだろうか。 北朝鮮のほうが権力がはっきり見えていて国民には分かり易いではないか。 俺達は羊の毛皮を纏った狼の国に住まわされているのだ。 こんなことを書く奴を反逆者だとか言うのだろう。 でも反逆なくして改革はない。 JR浦和電車区事件は、未来の祖国日本の繁栄の為に、それを担う子供たちの為に、俺たち大人が命を賭して正義を示すために闘わなければならないのだと思っている。 これは正義のなんであるかの戦さなのだ。 この事件の被告である美世志会の方々の支援を無実が証明されるまで続ける覚悟である。
現代社会では自給自足も困難だから働かざるを得ない。 それは生活のためであり、生き抜く手段だ。 その職種は多種多様、自己責任において選び、決定すれば良いのだが・・・。 では国を治める政治家は職業なのであろうか? 官僚はどうだろう? 地方を含めた役人は? 一人一人に聞いてみたい。 特に国政を任せている政治家達に。 彼らは何のために政治家になったのか? 今、この国が行き詰まり、若者たちまで沈滞感に包まれているのは政治家の存在感がはっきりしないからだ。 哲学やアイデンティティを含め政治家の中に人間が見えない。 見えるのは政党であり、派閥であり、権利団体ばかりじゃないか。 日常の重要業務は党利党略ばかり、今、この国に必要なのは自民党でも民主党でもない。 日本人の魂を持った政治家なのだ。 世襲で政治家になった輩に責任感を求めるほうが無理だ。 2代目のぼんくらは昔から「船宿の若旦那」がお似合いなのだから。 今度の総選挙、俺達国民は政党などどうでもいい。 国民の為に命をかける政治家を選ぼうじゃないか。 今の世界情勢で日本は、大変な危機の中にある。 国家存亡の危機と言ってもいいくらいの兆しがある。 国に命をかけない政治家など必要がないのだ。 今週の厚生労働省分割案消滅、森光子さんの国民栄誉賞発表・・・ 選挙対策の為の自民党の茶番・・・日本の政治家はこんなことしかできないのか。 テレビに必死の形相で自分の存在をPRしている政治家を見るのはもはや辛くせつない。
どの顔も悲しみを装っているが、足取りも会話も明るい。 マスコミのカメラが縦横に走り回っている。 芸能・文化人の葬儀の定番のような光景である。 芝・増上寺…徳川家所縁の菩提寺で先ほどまで、作曲家・三木たかしさんの葬儀が行われていた。 増上寺の本堂を正面に向かい斜め右を仰げば35階建てのビルがある。 慈恵医大病院中央棟である。 ここの33階が阿久 悠さんと7年間も闘病生活をおくった所だ。 よく病室の窓から二人で増上寺を眺めていたっけ。 まさかその境内で今日、たかしちゃん(阿久さんはそう呼んでいた) の葬儀があるとは・・・。 阿久さんの魂があの窓辺から見詰めているように俺には見える。 その目は悲しみなのか、哀れみなのか、憎しみなのか、それは境内にいる一人一人が判断すればいいだろう。 阿久さんと三木さんは仕事上の素晴らしいパートナーであったが、俺も三木さんとは特別なつながりがある。 まだ二人とも充分に若く、人生に迷っていた頃だ。 三木さんは突然、スランプで曲が書けなくなり、留学と称してニューヨークへ行った。 俺も当地にいて、三木さんとは随分語り合ったが、今思えば、よくぞ 自殺しなかったと思うのである。 当時のニューヨークの仲間たちは、多分三木たかしは自殺すると思っていたのだから。 そのくらい、何かに追い詰められ、いつも孤独だった。 なんとか堪えて帰国してから、また作曲家として頭角を現したが、彼はいつも狂気と紙一重の人だった。 ゴルフが大好きで、よくラウンドしたが、彼はミスショットすると 「これが悪い!」とゴルフクラブをへし折ってしまうことがよくあった。 昨年、癌が相当進行している三木さんに都内のホテルのロビーでばったりお会いした。 「河村ちゃん、大変だったね、ご苦労様でした」 三木さんは癌でかすれきった声でそう言った。 前年に他界した阿久 悠さんの闘病の看病をねぎらってくれたのだ。 狂気は持っていても、心根は優しい男だったのである。 三木たかしさん・ありがとう・さようなら。
本日15時 最高裁にて裁判長は言った。 「1000件以上に上る状況証拠を見ても被告 林眞須美の犯行は明らかである」 最高裁判所5人の裁判官全員一致の審判だそうだ。 バカ言っちゃいけないよ。 状況証拠の積み重ねで犯行を立証するなら、5件もあれば充分だ。 1000件以上って事は和歌山県警やら検察やらが竹箒と塵取りで集めたゴミみたいなものでしかない。 そんなもの1000でも5000でも同じだ。 人を裁く価値はない。 「塵も積もれば山となる」 この国の司法はそこまで落ちたのか? 物的証拠も動機も自白もないまま、本当に人を断罪して良いのだろうか? 状況証拠の目撃者、使われた砒素の鑑定、いまだに曖昧なままだ。 こんなマスコミと検察がでっち上げた容疑者を死刑にしてしまって、良いのだろうか? 死刑後に真犯人が現れたら、この案件の裁判官はどう償うのだろうか? 俺は眞須美さんとは友人であるが無罪とは言えない。 俺には有罪も無罪も確たる判定をする情報がまだ充分ないからだ。 でもどう考えても、今回の最高裁は高裁へ差し戻すべきだったと思う。 これが死刑となると、来月からの裁判員制度など、とても恐ろしくて認める訳にはいかない。 国民を巻き込んでの裁判官の責任逃れとしか思えないからだ。 「疑わしきは罰せず」ではなく「疑わしきは罰する」ことをますます助長させるのが裁判員制度だと俺は思う。 「死刑囚 みんなで裁けば 怖くない」 断っておくが、和歌山でのカレー事件は凄惨極まりなく、絶対に許されない犯行であることは認識している。 犯人を検挙し動機を解明しなければ、被害者とそのご家族の無念は晴れない。 だからこそ、この事件を曖昧にしてはいけないのだ。 今夜からの報道番組や明日のワイドショーは確たる問題意識も知識も持ち合わせていない、有識者と言う名の評論屋さんたちが好き勝手に喋って面白がるのだろう。 背筋が凍りつくようだ。 本日、この国は崩壊を始めた。 立法府の政治家が駄目、行政もめちゃくちゃ、国家の最後の砦の司法がこのざまである。 この国は遂に漂流を始めてしまったのだ。 判決!2009年4月21日 日本国を漂流の刑に処す。
文章のラスト近く「北挑戦は常に」・・・は「北朝鮮は常に日本の仮想敵国・・・」です。ご指摘ありがとう。 漢字変換はうっかりするとこんなミスが発生しますね。 せっかくだから先ほどの続き・・・。 この5月にわが国では「宇宙基本計画」が実施されます。 これは何かと言うと、考えようによっては実に恐ろしいものです。 宇宙基本計画とはわが国の宇宙開発の防衛利用解禁です。 つまり人工衛星などに開発していた宇宙ロケット技術を日本の防衛にも使いますよってことですね。 そうそう、弾道弾のロケットにも使いますよってことです。 迎撃ミサイルだって作りますとも・・・ってことですね。 これに対する日本のジャーナリストのご意見・・・いらっしゃればの話ですけど・・・聞きたいですね。 北朝鮮の皆さんのご感想聞きたいですね。 キム・ジョンイルさんのご意見ぜひお聞かせくださいまし。
今朝の北朝鮮のロケット発射実験である。 たかが空っぽのロケットになんで大騒ぎするのかね。 迎撃ミサイルだの、イージス艦派遣だの、総理官邸の危機管理だの。 ロケットに核弾頭でも積んでいるなら分るが、人工衛星すら積んでない空のロケットの破片などが日本に落下する確率など、今日、日本上空を飛んだ飛行機が墜落して落ちてくる確率よりずっと低いはずだ。 有識者と言う名の偉い方々が多いこの国なら誰でも分るだろう。 なのになんで? これはもう日米政府が仕組んだか、米国の命令に属国である日本が従ったかだろうね。 もしかしたら、北朝鮮のあのロケット代金だってアメリカが出したものかも知れないと、俺は思っている。 まぁアメリカの金ってことは日本の金なんだけどね。 この作戦の目的ははっきりしている。 日本におけるアメリカ軍基地の重要性の再確認、そして自衛隊の軍備拡張への布石だ。 これで大多数の日本人はスカッドミサイルだのイージス艦の必要性を感じたであろう。 北挑戦は常に日本の仮想敵国でなければらなない、これは日米政府が仕込んだ一大プロパガンダなのである・・・と俺は思うのだが。
吉原遊女たちのプレカリアート文芸 「あさき夢みし」(太洋図書) いろは匂えど 散りぬる我が身 この世の哀れ 誰が知る 飢えの奥山 涙で越えて あさき夢みし こりもせず これは昭和の時代の片隅で、身体を屈辱と恥辱に塗れながらも、家族の為に見知らぬ男たちに身を投げ出していた娘たちの記録です。 厳しい労働時間と理不尽な搾取に合いながらも、手を取り合って団結した遊女たちの労働組合の記録です。 現代のワーキングプア、プレカリアートと呼ばれる人々に、生きる勇気を与えてくれる女郎と言う名の美しい女性たちの記録です。 まさに・・・女たちの蟹工船・・・ でも彼女達は泥水の中にも、可憐な花を咲かせていました。 どのページを開いても彼女たちの温かな優しい心がきっと届きます。 生きる希望や目的や夢を失いかけている人に、ぜひ読んで欲しい一冊です。 また収集した遊女たちの慟哭の詩に曲をつけ、若林ケンさんや中島マリさんたちと歌を作りました。 本日発売の本にもDVDが添付されてますが、 来週の月曜日23日 18時より 「あさき夢みし」の出版記念として青山のライブハウス「月見ル君想フ」(03-5474-8115)にてお披露目します。ぜひおいでください。 若林ケンや中島マリさんたちと素敵なショーをお届けします。
近頃では滅多に見ない、万年筆での柔らかな字体と教養を感じる言葉で綴られた文体に爽やかさを感じた。 差出人は林 眞須美さん。 あの和歌山毒カレー事件から既に10年が過ぎた。 彼女はずっと無実を訴え続け、支援の輪も広がっているが2月24日の最高裁口頭弁論も形式的に行われ、まもなく結審・判決が出るだろう。 先日、安田好弘弁護士もおっしゃっていたが、最高裁での死刑判決は免れられない成り行きである。 今回のマスコミ報道によって立件されたような事件は、高裁への差し戻しが妥当だと思うが、無理かも知れない。 検察の有罪とする証拠は希薄だが、弁護側の無実とする決定的証拠も揃っていないのだ。 死刑判決が出たら、直ちに再審請求へ闘いの場が移るのだが、そんな状況下にも係わらず、眞須美さんの文面には全く濁りがなく、ボクと三浦和義さんへの感謝の言葉で満ち溢れている。 和義さんがいつも「眞須美チャン」と呼んで支援していたのが分るような気がする。 マスコミ報道とは全く異なる、可愛いい素直な女性なのだ。 それは彼女の4人の子供達を見れば分る。 こんな劣悪な環境、こんな悲惨な境遇下でも4人とも真っ直ぐに堂々と逞しく育っている。 性格もみんな優しく、人を憎まず、ただ母の無実を信じて待っている子供たちなのだ。 その姿を見て、応援をしない人間がいるだろうか。 俺には見て見ぬふりは出来ない。 あの事件でのお気の毒な犠牲者の方々の為にも、真実をはっきりさせることが大切だ。 その為の正しい捜査、裁判を望みたいのである。 冤罪・濡れ衣だけは、絶対に避けなければいけない。 眞須美さんの手紙の末尾には、 「無念にこたえるためにも頑張ります。今後とも、どうぞよろしくお願い申しあげます」 とある。 弱者を敗者にしては、絶対にいけない。
この事件は政治献金の在り方などと言った単純なものではない。 検察や政府高官が日替わりでマスコミに情報をリークし、マスコミはそれを精査もせず垂れ流して、国民を情報誘導している・・・としか ボクには思えないのだ。 この問題は田中真紀子さんも言っているように、後ろに大きな闇がある。 ロッキード事件の田中角栄失脚事件と同様だ。 今回の事件は、この国の闇の…(闇を装った)組織とアメリカの組織が仕掛けたものだろう。 民主党が政権を執っては拙い力学が、この社会構造にはある。 日本とアメリカのある一部の組織の共通項として…。 それを阻止する日米の合体力学こそ、今回の事件である。 これは昨年の三浦和義さんのサイパン不当逮捕から、ロス市警留置場での不可思議な死亡…(ボクは自殺だとは思わない)と同じ構図なのだ。 三浦和義事件もボクは日米合作の台本があったと思う。 では仕掛け人の目的は? それは日本での共謀罪の成立キャンペーンだろう。 アメリカはテロリストと不法移民対策に共謀罪を強化している。 これは日本でも早く法制化させたい事案である。 なぜならアメリカから見たら日本はアメリカの忠実な属国なのだから。 アメリカをテロリストから守る為には日本に共謀罪は必要なのだ。 そのキャンペーンで三浦和義さんは不当逮捕され殺されたのだ。 紙面の関係でここには詳しく書けないが・・・。 現代のマスコミ報道は、いつも権力サイドの情報を伝えるだけだ。 今こそ国民はマスコミ報道で意識を誘導されてはいけない。 事実は明らかに映画や小説より奇なる時代なのだ。 弱者こそキチンとした眼で権力者を見詰めよう。 いつも弱者が敗者にならない為に・・・。
獄中の眞須美さんから、ぜひ出席してくださいと伝言を受けたが、ボクは初めから出席する心積もりだった。 関西では定期的に行われているが、東京では初めての集会でもあり会場は立錐の余地もないほど超満員、マスコミも二十社近くが来て、この問題の重要さが身にしみて分った。 ボクは三浦和義さんを通じて眞須美さんの旦那さんである林健治さんと知り合い、林さんのご家族から見詰めるこの事件に触れた。 それまでのボクはマスコミが報じる眞須美さんしか知らなかったが、その報道が如何に違うかということを感じ、会場の皆さんにもお伝えした。 昨日は林健治さんと二人のお子さんもいらっしゃって、切々と妻であり母である、眞須美さんの無実を訴え、会場の同感を誘った。 安田好弘弁護士と弁護団のみなさんも説得力ある論理を展開してくれた。 この事件、冷静に見詰めれば不自然極まりない。 疑わしきは罰せず・・・どころか眞須美さんの疑わしいところは存在しない。 報道はなぜ、そこを見詰めないのだろうか。 今、この国は恐ろしいことに冤罪だらけだ。 皆さんも明日はわが身と考えてほしい。 マスコミもそろそろ簡単に悪人を作り上げて総攻撃する愚はやめなければいけない。 ひとを人として自分の目で見詰める・・・これをしないで裁判員制度などとても無理である。 昨日、あれほど熱く盛り上がった「林眞須美さんは無実です」の集会だったが、2月24日最高裁で粛々と無表情に口頭弁論が開かれる。 死刑が逆転無罪になる確率は非常に少ない。 しかし、この国のためにも林眞須美さんを死刑にしてはいけない。 絶対に絶対に絶対に・・・・・・・。
なんという露骨な変わり身・・・と言うか主体性の無きこと。 あれほど乱暴者だの嘘つきだの、朝青龍の人格をズタズタにしておきながら、彼らの計算違いの優勝をしてしまったら、一転して大横綱扱いである。 格闘技の何であるかを知らない横綱審議委員と称する人々や、皆で同じことを言えば怖くないことだけを知っているTV有識者と言う人々が、朝青龍を褒め称える姿は痛々しい限りだ。 しかし、一週間もすればまた一転して、朝青龍への波状攻撃が今まで以上に再開されるだろう。 なぜなら彼らは悪役がいなければ、存在できない人々だからである。 例えば内館ナントカと言うおばさんにしたって、朝青龍をけなす以外に何をしている人か知っている人は少ない筈だ。 現在の横綱審議委員のメンバーなど朝青龍がいるから存在が確認されているに過ぎないのだ。 ボクは朝青龍が大好きである。 格闘技は命を懸けたスポーツなのだ。 それぞれの魂の全てを血みどろでぶつけ合うから、見るものを感動させる。 格闘技に国技だの品格だの持ち出す論理こそ間違いだ。 現代の相撲は既に国技とは呼べないし、裸の男の闘争に品格は要らない。 ルールさえ守っていれば、闘う男の個性は自由で良いのだ。 また、個性があるから面白いのだ。 有識者と言う名の世間知らずの輩は、朝青龍1人を悪者に仕立て上げて 自分のポジションを死守しているとしか思えない。 では、考えて見て欲しい。 この10年、低迷した相撲界を支えていたのは誰だったのか・・・。 朝青龍ではないだろうか・・・。 相撲はモンゴル人に支えられて来たのである。 感謝こそすべきで、こそこそ悪口を言うなど恥ずべきことだ。 また彼の一途な闘争心こそ今、日本男児が学ばねばならない精神なのだ。 朝青龍の魂を日本の若者達に植え付けて上げたいと思うのである。
午後3時過ぎ、本日は確か国会では第二次補正予算案の強行採決で議員先生方はお忙しい筈なのに、目黒の会場には40名近い衆参両院議員の姿があった。 JR総連と言う組織の性質上、国対委員長の山岡賢次さんはじめ民主党議員が多いのは当然として、なんと与党・公明党代表の太田あきひろさんが10名ほど引き連れて駆けつけていた。(内緒だよ) 政治家もこのJR総連の組織力を無視できないのだ。 如何に今、JR総連の人間力の底力が膨大であるかが分る。 金や権力ではない、今必要なのは人間の素直な力、団結力なのだと再確認できた。 敵ははっきりしている。弱者から労働力や夢まで搾取し続ける権力者だ。それは民間レベルでも様々な職種で権力者がいる。 会社の為と言う大義名分で私欲しか考えていない輩たちだ。 彼ら権力者と稚拙な政治家によって私達の国は格差社会から、今や階級社会になってしまった。 会場でJR総連の武井政治執行委員長自らがボクの手を握って、まだまだたいしたことではなかったボクのお手伝いの労をねぎらってくれた。鎌田寛司書記長はじめ全組合員の連帯感にしびれた。 今。この国に必要なのはこの団結力なのだ。 このパワーをぜひニッポンのプレカリアートたちに分けてあげたい。 団結の仕方が分らない若者達に、そのノウハウを伝えてあげたい。 それこそがボクのこれから役目だと決心した。 団結、団結、人間は独りでは何もできない、特に弱者は・・・。 自分を含めてだが「弱者を敗者にしない!」 これが今年のボクの闘いのテーマである。 今日、JR総連の新年の集いにお招きいただいて本当に良かった。
やっぱり全てをチェンジの時なんだね、この国は。 今、この国には様々な熱気が充満している。 暴動・革命・テロ・戦争これらを即座に否定する人は少ないのではないか・・・。 心のどこかで求めてはいないか・・・。 今、突然、大地震でも大津波でも来ないかと、心の片隅で待ってはいないか・・・。 今、自分の周りの世界を出来ることならチャラにしたい。 その手段はなんでもいいのだと考えていないだろうか。 これを全て即座に否定する人は、勝者の論理しか持ち合わせていない輩だ。 人権よりも人命よりも金が全ての亡者だ。 今、日本人のアイデンティティがはっきり二分された、区別されたのだ。 今年は弱者や敗者が行動する。 どんな方法でも闘う好機がきたのだ。 資本主義だの似非民主主義だのぶち壊す時だ。 恐らく弱者は連体し膨大な力を持つ筈だ。 年が明け、そんな空気が空を覆っている。 政治だって大転換が必要だし、そうなるだろう。 ボクも闘う決心がついた。 動機はいくつでもあるが、目に見えるのはアメリカの手によって盟友が理不尽に命を奪われた事実だ。 目に見えないのは理由もなくボクのプライドが奪われたことだ。 絶対に許せることではない。 だから闘いに参加する。
読まれている書籍は「金の儲け方」か人生読本と称する「人生の諦め方」の本ばかりである。 文化の香りなど、微塵もない。 ほとんどの人生読本を要約するのは簡単だ。買わないで良いよ。 つまりこう言うことが書いてあるだけだから。 「あなたの苦しみが大きければ大きいほど、他者の苦しみを背負ってあげているのです。それがあなたの存在感、誰かがそれをやらなければならないのだから・・・」 弱者や敗者はこれで少々納得してしまう。 なぜなら彼らにはノブリスオブリージェ…人を助ける人間の本能があるからだ。 しかし、日本の勝者・強者にはそれがない。 世界の国々のなかで金や権力を持ったやつほどノブリスオブリージェがない人間が多いのは日本だけかも知れない。 そして彼らをじっと凝視する時は終わった。 今年は弱者・敗者が武器を持って闘わなければならない。 その武器はペンでも音楽でも言葉でも鉄拳でも良いのだ。 俺も今年はビシビシ闘って行く。 よその国のことはどうでも良い。h この国に今、最も必要なことは内戦なのだ。 国の中であらゆるジャンルで、様々な相手と戦いをしよう。 もう話し合いで、日本の未来はない。 2世代、3世代先、百年先を見据えて祖国・日本の為に闘おう。 今年は内戦の好機なのである。 日本中を戦場にしよう。
遠藤実さんの受賞に関しては何の異議もない。 古賀メロディと共に遠藤メロディは昭和の時代の人々を元気付け、生きる勇気を助長し、人を愛する大切さを提示してくれた。 「北国の春」「高校三年生」「こまっちゃうな」「せんせい」などすばらしい歌が次々と心に浮かぶ。 まぁこの時期だから、麻生太郎総理ちゃまの庶民人気挽回作戦の匂いが無きにしも在らずではあるが・・・。 この国民栄誉賞、前回の受賞者は2000年、マラソンの高橋尚子さん以来である。 それだけ受賞に値する人材がいなかったのであろうか? 否である。そんなことはない。 作詞家の阿久悠さんがいたではないか。 ボクは阿久悠さんの癌との壮絶な闘いの最中に約束したことが三つある。 「万が一、俺が死ぬことがあったら頼む」と言われたことが3件あるのだ。そのひとつがこの国民栄誉賞の受賞だった。 その為には、我々ブレーン、スタッフがやらなければならないことがある。更にご本人にもやっても貰わなければならないこともあった。 阿久さん没後、その役割は阿久悠さんに最も近い人々の任務だ。 しかし、だれもその事で動こうとはしなかった。 いや、むしろ受賞に足を引っ張った人々もいた。 亡くなった途端、親友だと称する人々が群がり、阿久悠さんの残した権利を貪り食っている。 なんともせつない無残な光景である。 そんな輩どもの心底を、空の彼方からじっと凝視しながら阿久さんは今回の遠藤実さんの国民栄誉賞受賞に何を想っているのだろうか。 阿久悠さんの国民栄誉賞・・・ 僅かに残されていた可能性が今日、そっと消えていった。
今日現在、依然としてロス市警、ロス郡検視局は事件の詳細データを提出しない。 この隠蔽工作に対して、私達の国の政府、司法関係者が一切口を閉ざしているのは非常に不自然です。 更にそれを追求しないジャーナリスト、マスメディアとは、何の為に存在しているのか、甚だ疑問です。 こんな現状を見せ付けられている、この国の若者たちは何を思うだろうか。 それでもこの祖国に愛が持てるのだろうか・・・。 俺はこの事件を断じて風化させない。 それがこの国に生まれ、育てられた人間の義務だとさえ思うからだ。 そんな感情もあって、この三浦和義さんの本は何が何でも出版したかった。 まず偏った報道によって形成されてしまった彼の人格や名誉を回復したかったのだ。 これは本を読んでいただければ、彼の社会感や志や優しい人間性が見えてくるからだ。 まず其処から、彼の人格の正しい提示から事件の解明が始まると思う。 昨日、ぶんか社から上梓されるまで、いったい何社の出版会社に断られただろうか・・・。 それを思い、この本を手に持っていると感慨もひとしおです。 やっとスタートラインに漕ぎついた。 さぁ和さん、行くぞって時に、その友は傍らにいない。 12月6日、この本の出版記念会を各界の同志たちがやってくれる。 三浦和義さんとボクの思い出のライブハウスで・・・。 集まってくれるのは、みんなこの不自然な事件とこの国の有り様に疑問を感じている方々ばかりである。
さすが身の丈181cm骨太の男はずっしりと俺の腕の中にあった。 この男が自殺する訳はない。 現に俺の腕の中で彼は叫んでいた。 「ぼくは自殺などしない」・・・と。 分っている。君は自殺する男ではない。 有能な日米の弁護士団も既に活動を開始している。 真相は間違いなく解明できるだろう。 そうでなければ、この社会の秩序も、いや未来さえないのだから。 2月22日、君はなぜサイパンで突然逮捕されたのか・・? 10月10日、ロス市警の留置場で君にいったい何があったのか・・? 君の無念を晴らす為、我々は徹底的に闘う。 必ず真実を解明する。 本来なら母国がやるべきことを、外務省や法務省がやるべきことを、またジャーナルがやるべきことを、我々同志がやる。 やらなければこの国のアイデンティティは消滅してしまうだろう。 これはそのくらい、この国にとって大きな問題なのだ。 もっともっと同志の輪を広げたいと思う。 心ある方は参加してください。 さらば友よ、朋友・三浦和義さん、君の肉体とは別離したが、君の志や想念や弱者を労わる優しさとは、別れることはないし、皆で継承していく。 8ヶ月ぶりの日本です。ゆっくりおやすみ・・・
要点は只ひとつ、ロス郡検視局が検視結果を開示しません。 ロス市警もまったく情報をご家族に示そうとしません。 それで遺体を早く持って帰れというのです。 これに返事をすると遺体は即刻、完全に防腐剤処理をされてしまいます。 これでは死因が全く闇の中になってしまうのです。 日本での再検視もできません。 だからご家族が検視結果を求めているのに、マスコミは「ご家族が遺体の引き取りを拒否」と報道しています。 このニュースソースの出所を調べました。 ボクの調査では出所はロスの日本領事館でした。 ご家族も領事館に抗議し、訂正を求めました。 これが昨日までの現状ですが、それから丸一日、進展は何もありませんでした。 明日はゲラゴス氏も帰ってくるでしょう。 一気の進展を望みたいですね。 検視局とロス市警の動きは本当に不可解です。何を隠しているのでしょうか。一体空白の4時間にロス市警の留置場で何があったのか? どなたかジミー佐古田の動向をしりませんか? あの出たがり屋の彼が出てこないのも不思議です。 河村シゲル
「勝手にしやがれ」を読んでいただき、沢山の暖かいご感想・ご厚情を頂いた皆様には感謝しています。 昨日の朝も作曲家の小林亜星さんから留守電をいただきました。 「シゲルちゃん「勝手にしやがれ」読んだよ。感動した。素晴らしかった。よくぞあそこまで書いてくれた。嬉しくて電話した」 小林亜星さんはボクにとっては怖い兄貴分であり、ちょくちょくお説教を貰うのだが、今度ばかりは違った。 おまけに深夜に再び電話をいただき「よく7年もがんばってくれたね。俺達音楽関係者は阿久さんの病気中はみんな逃げていたんだ。それをあやまるよ」とまで言っていただいたのだ。 ボクはその言葉が嬉しくて武者震いが出たほどだった。 確かにボクがこの本を上梓して以来、阿久さんと親しかった人々がボクに冷淡になっていることも意識している。 阿久さんが病気の時は近付きもしなかった輩が、今頃になってああだのこうだの言っている声が聞こえてくる。 金だの権利だのの絆・・・人として惨めだとは思わないのかなぁ。 五木寛之さんがよくおっしゃっていた「この頃は後出しジャンケンの奴ばっかりだ」を思い出す。 確かにボクの業界関係者だけでなく、政治家も経済人も後出しジャンケンの輩ばっかりだな。 でもそうではない人も沢山いることを今回は確認できた。 ぼくは今回、阿久 悠さんが単なる作詞界の怪物なんて陳腐な呼称ではなく、豊かな人間味のある方だったことを伝えたかったのです。 それを分っていただいた方々が沢山いらっしゃった。それがうれしかった。 皆さん、ありがとうございます。
ネガティブに予想していた事とは言え、あまりにも筋書き通りなのでがっくりきたよ。 これは明らかに米国の共謀罪プロパガンダに利用されたのだ。 彼の国はラテン系の移民が多く、テロリストやマフィアに対して共謀罪を強化させたいのだ。 日本政府か司法関係も加担している可能性だってある。 先進国はネットでの悪事共謀がこれからの大きな問題点になるだろうし・・・。 でも、だからといって罪のない男をキャンペーンのプロパガンダにしてはいけない。 普通の日本人なら駄目だけれど、三浦和義なら仕方ない、いいんでないの・・・マスコミもその程度の認識なんだろうね。 報道によって創られてしまった人格・・・。 それで人の一生を台無しにするなら、これは明らかな人格人権差別に他ならない。 ここが報道の難しさであり、留意しなければならない部分なのだ。 まぁごちゃごちゃ言っても仕方がない。 そして29日の今朝、マリアナ地裁が人身保護請求を認めず、三浦さんのロス移送が決定した。 正確にはバーライン弁護士が保護請求を取り下げた・・・もっと正確に言うなら三浦さんが自らロスへ行くと申し出たのである。 ぼくは彼の決断を27日に聞いて知っていた。 彼は腹を決めたのだ。 サイパンでモタモタ茶番な時を過ごさず、共謀罪について堂々と闘う道を選んだのです。 事件の焦点が共謀罪になった。 これは望むところである。 共謀罪とはなんであるか、明らかにする絶好の機会到来だ。 問題が共謀罪なら日本の有識者の先生方も議論に加わってくるだろう。共謀罪に反対する人は多いのだ。 当たり前だ、日本に共謀罪など成立したら、完全に帝国主義への回帰である。 アジア諸国から警戒され相手にされなくなってしまう。 だから闘え!日本の有識者たちよ! でも、本当に闘うのはいつも庶民なんだよね。
これは弁護側も想定内のことだった、26日(日本時間27日早朝)にロス地裁で三浦さんが申し立てている「不当逮捕」の結審がある。 それまでは釈放はないだろうと思っていたからである。 昨日はサイパンの判事だって「まぁ人身保護請求の件は次回ってことで・・・」くらいの棄却だったのである。 しかし、問題はその30分後の出来事である。 終了したはずの法廷が突然再開され、判事が「ロスへの身柄移送を支持する」との決定を出したのだ。 一週間前には、同じ判事が検察のロス移送請求を棄却したばかりなのに・・・この変化はいったいなんなのだろうか? 昨日、たった30分の間に何があったのだろうか? そこには大きな圧力が働いたとしか思えない。 サイパンの裁判官さえ左右するほどの圧力である。 ひとりの日本人が海外で不当に拘束され、ここまで翻弄されているのに、なぜ我が国の外務省、法務省、いや政府は救いの手を差し伸べないのだろう。 これも不思議としか思えない。 自国の最高裁判所が無罪とした人間が、海外で同じ罪で裁かれる・・・そんなことがあっていいのだろうか。 国際的な一事不再理の原理原則を知らぬはずはない。 では、拘束されたのが三浦和義さんだからなのか・・・ これが無名の日本人だったら、政府もマスコミも早急な救出を叫ぶだろう。 問題ははっきりしている。 当事者が三浦和義さんだからなのである。 でもこれは大きな人格差別ではないだろうか・・・。 それを承知でマスコミ報道がされているのなら、日本のジャーナリズムとは何なのか・・・考えさせられてしまう。 政治の空白も食品偽装も学習格差も生活格差も全て同根である。 人権と報道・・・これをみんなで真剣に考えるべき時なのである。
追い詰められて自らの手で死ぬ時に呟いた。「俺は最低だ・・・」 彼を愛してしまった女・ジーン・セバーグがそれを聞いて呟く。 「最低ってなんのこと?」 阿久 悠さんはこの映画をモチーフに沢田研二に「勝手にしやがれ」を書いた。 コンセプトは「男のやせ我慢」 ボクも負けずに拙書を上梓した。 9月12日にKkベストセラーズより出ます。 「勝手にしやがれ」 ボクの場合は全く個人的なやせ我慢である。 それも結果的にそうなってしまったので、あまり大きなことは言えない。 ともあれ阿久 悠さんとの40年前の出会いから昨年夏の別離まで魂を入れて書きました。 ガン患者を身近に持つ方々にも参考になればと・・・本当はそれが出版の一番の目的だったのです。 「どうせ売名行為だよ」 業界の人々はきっとそう言うでしょうが、そうではないことは読んでいただければ分るはずです。 皆様もぜひ読んでいただけたら・・・・・嬉しいな。 それから10月には三浦和義さんとボクの共著も出ます。 これも結構な代物ですぜ・・・。 また喧々諤々あるでしょうが・・・「勝手にしやがれ」
それとそれを分っていながら報道しないマスコミも同罪である。 何を言い訳しようがこれは事実である。 オリンピックに何の為に参加するのか? これさえ考えれば分ると思う。 少ない予算をやりくりしながら、4年間頑張ってくれたJOCの皆さんと選手達には最大限の敬意をはらいます。 そしてその人々を見事に纏め上げた、日本代表選手団団長 福田富昭さんのご努力にも頭が下がります。 福田団長が記者会見でおっしゃった総括の中にも野球関係者への苦言がありました。 ボクはその通りだと思います。 しかし、多くのマスコミはその部分を編集で消去していました。 ぼくも言いたいことは沢山ありますが、ひとつだけ・・・。 例えば男子野球チーム・・・ 監督とコーチは仲良し遊び仲間で見苦しいばかりです。 野球チームは選手村に宿泊せず、5つ星の超高級ホテルに滞在し、まさに豪遊です。 選手選びも監督のイエスマンばかりでした。 星野監督はイケイケドンドンの采配しか出来ないので、短期決戦のインサイドベースボールは無理です。 さらに選手達がなんの為に闘うのか認識していない為、全く試合を見るのも辛い状況でした。 上層部の無知と教育のなさが見事に露呈していました。 せっかく他の競技の選手達が奮闘してくれたのに、画竜点睛をかいてしまいましたね。 福田富昭団長は断腸の思いでしょう・・・。って最後はオヤジギャグかよ。 実は福田富昭さんとボクは以前、一緒に駿河湾の荒波の中で釣りをした仲なのです。 あの時は駄洒落の好きな方だったのでーす。
ボクは今回で逮捕の無効性が立証され、即時釈放もあると思って準備もしていたのだが・・・。 やはりというか、遂にロス郡検事局が「共謀罪」を審理の争点に持ち出してきた。 この事件、アメリカ司法の目的が分らず、もしかしたら日本の何らかの組織との裏取引によるものと思っていたが、やはり「共謀罪」だった。 日本の刑法には「共謀共同正犯罪」はあるが「共謀罪」はない。 日本政府は法律改正でこの「共謀罪」を成立させたいのだ。 この法律があれば、どんな些細な案件でも国民を逮捕・拘束できるのである。 みんなが皆んなを疑い、スパイだらけの国になってしまう。 隣人さえ気が休まらない社会になってしまうのだ。 だからこの「共謀罪」を成立させてはならない。 こんなことをここに書くボクは既にある組織からは要注意人物だろうが、ボクはそれを承知で書いている。 三浦和義さんの不当逮捕はこの「共謀罪」のプロパガンダではないのだろうか。 アメリカと日本の裏取引があるとしか思えない。 そう考えると合点がいく。 あのもとロス市警のジミー時田のおっさんが最近しばしば日本にやって来て検察の人間とコチョコチョ動いてること。 また最高裁の無罪判決を無視され、完全に日本の司法の尊厳や権威を黙殺された事件なのに、わが国の司法関係者も外務省も法務省もまったく動かないのは、そこに動けない何かの力学があるとしか思えないではないか。 それが「共謀罪」成立の為だとしたら恐ろしい。 三浦和義さんの不当逮捕事件こそ、日本人がもっと関心を持たなければならない大問題なのである。 幽霊の 正体見たり 枯れ尾花 幽霊の正体は「共謀罪」だった。
これこそお笑いだ。 それをNHKをはじめ天下の公共メディアが後生大事に取り上げている。 でもね、環境問題を語るならまず、「地球にやさしく」だの「環境にやさしい」だの、あの馬鹿げた表現は止めるべきだ。 日本語の「やさしい」は、そこに上下の関係が存在している言葉だ 大人は子供にやさしくとは言うが、子供は大人にやさしくとは言わない。 やさしいには上から下を見詰めるニュアンスがあるのだ。 近頃は日本語がめちゃくちゃになってきて、マスメディアさえ麻痺して気付かなくなっている。 日本人が盛んに使う「地球にやさしく」はちっぽけな人間の浅はかな驕りに過ぎない。 人間は地球より上位の存在なのか? 馬鹿馬鹿しい、地球はそんな小さな存在ではない。 60億年も宇宙に存在しているのだ。 人間の存在なんて高々60万年じゃないか、 地球から見れば人間なんて表面に束の間くっついたゴミだ。 ゴミが地球を破壊できる訳がない。 「地球にやさしく」が日本人だけの表現だとしたら、如何に今、日本人は勝者の論理を振り回し、格差社会も極まったと言わざるをえない。 世界の国々に対しても恥ずかしい、よくぞ福田総理はサミットなどやったもんだともう感服するしかないね。 環境を考えるなら、対象が地球ではなく、人間の反映によって無残な被害を被っている全ての生物に対して考えるべきなのだ。 CO2の排出・削減も全ての生物にたいして行なうべきなのだ。 まずは一人一人が「身近な全ての生物にやさしく」これが環境を考えることだと思う。 「地球にやさしい」なんて子供達にも間違った言葉を教えてはいけない。
目的は長期間の拘留で出費の嵩む弁護士・通訳費用のカンパ集会だ。 ぼくも発起人の1人として当然参加したが、実に感動的な集会だった。 参加者がユニークだったのである。 まずは右翼の理事長、会長、代表など要職にある方々、そしてこの国に僅かに残っている労働組合の中で代表的な労組の方々、更に左翼の方々、ヤクザの方々、弁護士、法学者他多数の業種の方々が百名以上も終結した。 日頃、中道を標榜しているぼくも、イデオロギーではない人間のケミカルボンド・科学的結合に感動したのである。 昨夜の人々を終結させたのは、この国への主権の侵害と憂国の情、正義とアイデンティティの消失危機感である。 当たり前だ。 日本の最高裁判所の無罪判決を無視するアメリカに対し抗議一つ出来ない日本の司法と政府の弱腰・・・。 いや、法務省や外務省はロス田舎市警如きに捜査協力までしようとしている。 私達国民は何を信じてこの国の一員として生きていけばよいのだろうか。 それを問う事件なのにマスコミにはこれっぽっちの問題意識もない。 その危機的連帯感で集まったのが、昨夜の人々だった。 自国を心から愛し守ろうとする時には、人間には些細なイデオロギーなど関係ないのである。 それを皆で確認できたことが大きな収穫だった。 昨夜のアクションを大きな力に育て今、この国の迷っている若者達の お手伝いをしたいと思うのである。
G8諸国のように人間が合理性を根拠に利便・利益のみを追求し、それによって失われる「いのち」のリアリティを論じたところでうそ寒さが募るだけだ。 老子や荘子、ブッダなど東洋の哲学・宗教思想家たちは未来を予測して、こんな事態はとっくに看破していた。 日本の政治家や官僚は、その程度の勉強はしておいたほうがいい。 こんな結果は分りきっているのに、あれほど大金を投じてやるサミットの価値が何処にあったのだろう。 G8が先導してCO2の削減など出来るわけがない。 経済を優先する先進国の立法・行政の人間には、環境改善など出来るわけがない。 出来るとすれば、世界中のNGOの結束が重要な条件になると思うが、残念ながら最近の日本国のNGOは隠れODAが多すぎるように思う。 20年ほど前はこんなんじゃなかったけれど・・・純粋なNGOが少なすぎる。 だからサミット会場周辺でもNGOの集会は盛り上がらなかった。 今、この国を立て直すのは本当に難しい。 あまりにも「いい歳をした大人たち」の心が荒み切っている。 だからまだ純粋さの残る若きプレカリアートたちに期待したいのだ。 今、日本人がもっとも大切なことは「わたし」を捨てて「いのち」のリアリティを感じることだ。 「色即是空・空即是色」俺は仏教徒ではないけれど般若心教のこの文言には大きな哲学を感じる。
男性である。 これに自殺未遂、自殺願望者を含めると大変な数になる。 「死ねないから生きているだけの毎日・・・」と言う人は今、この国に数えきれないほどいる。 死に方はまた、その人の生き方であるから俺は反論はしない。 命の尊さを分った上で自らの命を閉じることに異論はないのである。 反論はしないが「老い」と云う事に関しての俺の考え方を書いてみたくなった。 「老い」とは何か? 地球の生き物は皆、無常である。 宇宙の中で限られた時間を生きているだけなのだ。 生病老死の因果法則を誰も免れ得ない。 しかし、生殖を終えると殆どが死にゆく生物の中で、人間だけがなぜ老いるのか?「老い」の期間が長いのか? これこそ宇宙が人間だけに与えてくれた、素晴らしいひと時だと俺は思うのだ。 「自分とはなにか?を考える掛け替えのない時間」 それこそが「老い」だと思うのだ。 「次の世代に何を残してあげようか・・・」 このワクワクした時間こそが「老い」なのだ。 「老い」とは豊穣で優美な心を持てる人間の時間なのだ。 そして、自らの死を快く認め、受け入れる覚悟が出来た時、「老い」 の時間が傍らにやって来る。 「死ねないから生きているのではない」 「死ねるから生きているのだ」 どうだろう、俺はこう思うけれど・・・。
その大多数が元暴走族・・・現役もいたか・・・。 雅樹は暴走族同士の抗争事件で殺人や監禁などの主犯とされ10年ほど服役して帰ってきた。 雅樹は最高裁まで冤罪を主張し続け、服役中も罪を認めることはしなかった。だから満期出所であった。 彼の仲間たちも塀の外から雅樹のプライドのために冤罪を叫び闘ったが、この国の司法は暴走族の正義など慮ってはくれなかった。 でも雅樹はこれからもプライドをかけて闘うだろうし、俺は協力を惜しむことはない。 そんな会に出席して、雅樹の仲間たちに囲まれふと思った。 ここにいる多くの若者達もまた、この時代のプレカリアートなのだろう。 一人一人の心はまだ満たされていないし、空洞を持っているのだろう。でも彼らはまだいい。 元暴走族の素晴らしい仲間たちがいる。 支えあう友がいる。 しかし、この国の大多数のプレカリアートは孤独である。 その1人が先週、秋葉原で馬鹿なことをした青年である。 彼には1人の仲間もいない。作る術を知らなかったし誤っていた。 その原因こそが問題であり、マスコミが報道すべき論点である。 しかし、今日のマスコミはなんだ。 NHKニュースは絶対に報道してはいけないラガーナイフの性能や使い方を得意そうに伝えていた。 その報道は、事件予備軍たちの好都合な情報にしかならない。 また、全てのマスコミ報道が、秋葉原のホコテンを36年ぶりに中止にしたことを当たり前の面をして伝えた。 馬鹿げている! ホコテンを中止にしたら、凶行に走った若者とその予備軍を喜ばせるだけではないか。 そして、なによりホコテンの仲間を失ってしまった、多くの若者達の悲しみと憎しみのエネルギーを溜め込ませただけなのだ。 今、この国の大人たちの判断基準はなんなのだろう。 俺にはまったく分らない。 だれが孤独な若者達を作り出しているのか、真面目に考えろ!
俺の推察であるが小林多喜二のこの作品は、その3年前に葉山嘉樹が書いた「海に生くる人々」を大いに下敷きにしている。 蟹の工作船と石炭の運搬船の違いはあるが舞台は北海道の冬、葉山の作品は小林のそれよりはるかに力があると俺は思う。 どちらもわが国のプロレタリア文学の最高に近い作品ではあるが。 興味のある方は読んで欲しい。1926年に改造社より出版され復刻版もある筈だ。 その描かれている状況は今の日本、いや新自由主義経済の先進諸国の現状に似ているのだ。 今、大騒ぎしている原油価格や穀物相場の高騰、これは一部資本家による営利金融操作に他ならない。 この影響で世界中の民衆が貧困層へと転落しているのだ。 それは日本でも同様である。 民衆意識のかけらも持ち合わせていない政治家による規制緩和と民営化の弊害がとんでもない姿となって現れてきた。 社会保障より自己責任を声高に唱え、効率至上の世の中にしてしまった結果、一握りの富裕層と多数の貧困層というとんでもない経済格差社会を造ってしまったのだ。 そしてその一握りの資本家たちがフリーター、ワーキングプア、学歴難民、マックジョブ達から、好きなように搾取している。 今こそ、世界のプレカリアートが立ち上がる好機だ。 プレカリアート・・・この言葉はイタリアの失業者達が壁に描いた怒りの落書きなのだ。 世界中で資本家に不当に搾取されていた不安定な労働者達が決起している。 韓国では中学生や高校生まで立ち上がったではないか・・・。 日本でも「蟹工船」をマスコミのブームで終わらせては駄目だ。 単なる共感ではなく、社会改革のエネルギーにしなくてはいけない。 これは堕落しきった日本におけるプレカリアート達の最初で最後の聖戦なのだから・・・。 もう負け組などと呼ばせてはいけない。
和さんの声が妙に弾んで明るい。 「エッ、和さん保釈になったの?」 と感じるほどの屈託のない声だった。 でも和さんはまだサイパンの刑務所の塀のなかだった。 しきりに俺の身体の心配をする。 でも俺は相変わらず身体だけは頑丈そのものだ。 いつでもK−1のリングにたてるくらいの気持の準備は出来ている。 では、なぜ三浦和義さんは俺に電話してきたのか? 理由は直ぐにわかった。和さんの茶目っ気なのだった。 実は昨日から奥さんと息子さんがサイパンに行っている。 俺も行きたかったのだが都合がつかなかったのだ。 そして刑務所に面会に来た時、お二人はオレンジ色の服を着てきたと云うのだ。 拘束されている和さんはいつもオレンジ色の刑務所の服を着ている。 奥さん達はそのオレンジにお茶目に合わせたので、三人ともオレンジのお揃踏み、これには弁護士も看守も大笑いでした・・・。 という事を伝えたくて俺に電話してきたのである。 その上、それを聞いた俺もオレンジのジャケットを着ていたのである。サイパンの和さんと電話で笑い転げてしまった。 三浦和義さんはまだまだ元気いっぱいである。 我々も彼の救出の為にもっともっと動かなければ・・・。 電話の和さんにそれを誓って暫しの別れを告げた。
これがまともなメディアの目かと思うと背筋が寒くなる。 気の毒にも優勝したブルガリアの琴欧州はそっちのけのバカ報道。 朝青竜と白鵬の千秋楽横綱対決のことばかりである。 白鳳がすかされて土俵に手をつき、そこを朝青龍が駄目を押し、白鳳が肩を朝青龍のぶつけた。 これのどこが悪いのか? これは裸の男の力と力の格闘技なのだ。 横綱審議委員とか云う輩はだれ? なんの為にいるの? いつも思っていたが、格闘技の経験も知識もない人が格闘技を語るのは変だ。 だからあんな頓珍漢な爺の説教になる。 闘う人なら判る。瞬間を闘うのが相撲なのだ。 白鵬をイナシ、白鵬が手をついた瞬間は朝青龍にはわからない。 それが見えるのは行司と観客だけだ。 朝青龍が二の矢を放ち駄目を押すのは相撲という勝負の流れの動作である。北の湖理事長もそう言っていたではないか。 そんな基本は相撲の好きな人なら判る。 それを横審の連中は横綱二人に侘びを入れさせろだと・・・。 朝青龍はなにも悪くないと断言できる。 勝負の後、肩をぶつけた白鳳にも同情はするが悪人呼ばわりはいけない。不甲斐なく負けた悔しさを身体で現しただけだ。 そして最後に睨み合った二人も面白くてよかったじゃないか。 「いや、相撲は相手への敬意や挨拶を重んじる国技」と言う人もいるだろう。 でもそれは昔の話である。 日本の国技を捨て、国際的なスポーツにシフトした時点で相撲道も武士道も哲学も消えたのだ。 神道に通じる相撲を異教徒に開放したした時点で相撲道も変革したのである。 異教徒に神道を押し付けるわけにはいかない。 それにまだ拘っているのが横綱審議委員会の面々である。 昨今、相撲をつまらないものにしたのは彼らと、それを助長させたオイショマスコミである。 相撲くらい自由にやらせ、自由に見せていただきたい。 横綱審議委員会などいらない。
ついに待っていた好機が来たぞ。 小林多喜二の「蟹工船」がロストジェネレーションを中心にした若者達に読まれている。これは何を意味するか? そうそう昔・プロレタリアート、 そして今・プレカリアート(不安定な労働者、失業者階級) このプレカリアート達が遂に立ち上がろうとしているのだ。 若者達の間に社会運動が始まったのである。 明確に「敵」の存在を若者達が認識したのだ。 若者達に目を向けようとしない政府や企業、フリーターやニートは社会の屑と斬って捨ててきた奴らに対する階級闘争の始まりだ。 現代は小林多喜二の時代よりもっと酷い格差社会である。 教育現場から既に格差を作り出している。 現代の金融資本主義で獲得された一部の人びとの高額所得は、若者達や外国人労働者の低賃金の結果だと思う。 これをマルクスの資本論的には搾取と言うのだ。 「資本家の獲得する利潤は、真面目に働く労働者からの労働力の搾取である・・・マルクス」 弱者から搾取している人間は冷や汗を掻くことだろう。 でも今の若者達は左翼の思想は持っていない。 勿論、右翼思想でもない。 それで良いと思う。今更イデオロギィーなど拘ることない。 階級闘争の戦略や労働組合のパワーを知らない若者たちなのだ。 心ある大人たちがそれを教えてやれば良い。 先進国の中でもただ一国、とんでもない方向に堕落しているこの国だが遂に若者達が立ち上がってくれそうだ。 この時を待っていた。 最近、嬉しいことにそんな若者達から相談も受けている。 今の日本では「蟹工船」の現場があらゆる職場にあるのだ。 プレカリアートたちの底力を見せてやれ。 小林多喜二は、この思想で惨殺された。 俺も生命を賭けてプレカリアート達を応援する心算だ。
移送しなければ逮捕状の有効性の審理が出来ないと云う検察の主張は却下された。 次回は検察側が日本での裁判記録の英訳を用意することも要求された。 マーク・ゲラゴス弁護士の笑顔から、次回審理で和義さんが釈放される公算が大きいことが判る。 裁判記録は完全な無罪判決である。日本の最高裁判所の5人の裁判官は全員一致で検察側の上告を棄却したのだから。 来週、サイパンの弁護士が和義さんの身柄拘束解除の手続きに入る。 サイパン当局は直ちに身柄の拘束を解除すべきだし、日本政府もそれを強行に申し入れるべきだと思う。 今までだってアメリカの行動には無理がありすぎる。 日本の最高裁判所の決定を無視することは、日本人の尊厳を根底から傷つけることに他ならない。 日本人のアイデンティティの否定である。 司法にも人種差別意識で取り組まれてはたまらない。 これを日本政府、外務省、司法に携わる人びとはどう感じているのでしょうか。 皆でで知らん顔を決め込んでいる偉い人々の行動に注目しましょう。 ぼくは今、山際永三さん、浅野健一さんと共に友人代表として、弁護士費用のカンパを皆様にお願いしています。 三浦家には不可抗力の事件なのに、アメリカの裁判の弁護士費用には多額の金銭が必要です。 そこで、心ある人びとに浄財の支援をお願いしている次第です。 尚、カンパ資金は一括するほうが間違いがないので、統一しました。 これは弘中惇一郎弁護士にお願いして開設しました。 みずほ銀行新橋支店(支店番号130)普通預金 口座番号 1527996 三浦和義さん弁護団預り弁護士弘中惇一郎 原則として銀行の振込表をもって領収書にかえさせてください。 いずれ、会計報告はきちんといたします。 この事件は国際的にも日本人の愛国心が試される事件です。 今、不当に理不尽な環境にいる三浦和義さんを救出するのは、当たり前のことです。
サトウハチロー 作詞 中山晋平 作曲 おどりおどろか チョンホイナ あの子にこの子 月もまんまる 笑い顔 いきな姿や 自慢の手ぶり 誰に遠慮がいるものか ソレ チョンホイナ ハ チョンホイナ うれしじゃないか ないか チョンホイナ 偉大な詩人サトウハチローをして、このどこが憲法音頭なのと思ってしまう歌詞です。 チョンホイナの掛け声は中山晋平の発案とされています。 これは日本国の新憲法が施行された昭和22年、その普及の為に時の社会党内閣が作ったが、芦田 哲首相が1年で総辞職してしまった為、幻の憲法音頭になってしまったものだ。 4番目の歌詞・・・ そんじょそこらの チョンホイナ ちょっとないものは 春の桜に 秋の菊 雪の富士山 海辺の松に 光りかがやく 新憲法 ソレ チョンホイナ ハ チョンホイナ うれしじゃないか ないか チョンホイナ 当時の作詞・作曲の大看板のお二人を使って作ったものだが、これが日本国憲法のテーマソングなのである。 社民党をはじめ護憲派の皆様はぜひこの歌の普及に勤めてはいかがでしょうか。 この音頭をラップで唄ったり、ダンスも今話題のバイラバイラなどにアレンジしてみたらどうだろう。 俺がプロデューサーを委託されればそうしたのになぁ。 そうすりゃ昨日の憲法記念日も国民が注目したし、マスコミも取り上げたと思うのだ。 憲法記念日ったって何の日なのか、まるで認識がない単なる祝日である。 日雇いの庶民には日銭を稼げない日であり、パチンコ屋が儲かる日、 それが今の憲法記念日である。 だから殆どのマスコミが取り上げなかったのである。 国の憲法に国民が関心がない・・・これを異常事態と云うのだが、その意識すら政治家連中にはないのだろうなぁ。 初めに「憲法記念日に想う・・・」などと書き始めて空しいのでやめた。 その残骸が、下記です。
僅かに憲法9条を片手間に持ち出した新聞社もあったが、パンダの死や ガソリン価格や船場吉兆が客の残したものを
明後日からガソリン代は値上げになる。 その為、昨日あたりからガソリンスタンドは長蛇の列、TV局も取材にバカ騒ぎである。 そんな映像を見て心が寒い、もう初夏だと云うのに・・・。 少しでもガソリンを安く・・・それも庶民感情でしょう。 でもガソリンどころか今日の食事さえ、ない庶民だってたくさんいます。 ガソリンスタンドに並び、数千円の儲けに一喜一憂する人びとが庶民でしょうか。 ひと月前、ガソリンが安くなる時、ぼくはこう思った。 「どうせ一ヵ月後に元に戻るんだ。だったら小売価格はそのままで、その差額は福祉や環境に廻せないのだろうか?それを提案するのが政治なのじゃないか・・・」 車を運転し、心ならずもCO2を撒き散らしている、ドライバーたちの、せめてもの自己の慰めにもなるではないか。 大体ガソリン代が飲料水より安いと云う価格設定は不思議です。 どうして政治家や毎日テレビで偉そうに社会を切っているコメンテーターや有識者と呼ばれる偉い先生方は気が付かないのだろう。 彼らは全員、勝者の論理しか持っていないからです。 心から弱者救済など考えていないのです。 それがあるなら後期高齢者の健保問題など簡単です。 差し引くだの、引かないだのの問題ではない。 政治に哲学があるのなら、75歳以上の方々には全てを無料にするべきでしょう。 国の為にここまで生きて来られた方々です。 その方々をなぜ大切にできないのか?勝者の論理しか持っていないからです。 これは、この国の政治家が抱えている最悪の精神のひとつにすぎません。つまり哲学を持ち合わせていないのです。 これから消費税の値上げ問題もあるでしょう。 でも、値上げを考える前に、例えば欧米諸国は水や主食などのライフラインや文化育成には消費税を考慮するという基本哲学を持っていることなど勉強するべきです。 今、私達の国は国際競争力は27位、少子高齢化は超1位だと云う情けない事実を認識しましょう。
オリンピックの聖火リレーは素晴らしい企画イベントだ。 世界の人びとを共通の目的で繋ぎ走るのだから。 スポーツを通しての世界平和、その壮大な理念には共鳴する。 そこにイデオロギーや宗教、民族問題を持ち出さなければの話だが。 では、今起きている騒乱はなんのだろう。 中国のチベットに対する人権問題、アフリカ・スーダンの石油資源に関するジュノサイド・・・。 しかし、発展途上国に対する人権問題や民族紛争の原因はほとんどの先進諸国が関与している。 今、中国を攻撃している国々だって、同じ穴の狢じゃないか。 中国だけを殊更問題視するのは矛盾している。 ぼくも人権問題をこれからの人生の大切なテーマとしているが今、 今回の騒動をここで総括するつもりはない。それはいずれ・・・。 明日、やって来る聖火は日本にとって何のための聖火なのか、それを 日本の優秀なメディアがどう伝えるか、そのお手並みが楽しみなのである。 日本と中国の優秀な警備軍団により、人の心より大事だという「炎」が如何に守られるか、固唾をのんで見つめてみたい。 芸能スポーツ著名人がランナーで大挙参加するらしいが、彼らのギャラは誰が払うのだろうかなぁ? 宿泊費や交通費や食事代は? 沿道の整備や警備代金はいくらで、誰が負担するのだろうかなぁ? スポンサーが降りたと云うが本当だろうかなぁ? 本当に降りたのなら予定していた資金の手当てはどうしたのかなぁ? そうだ、今回なぜ長野だけでやるのかなぁ? 聖火ランナーをなぜ一般大衆だけでやらないのかなぁ。 高齢者や障害者や落ちこぼれや・・・こんな時こそ弱者に明かりを当てるための聖火なのではないのかなぁ? なぜ聖火まで下らないバラエティショーにしてしまうのかなぁ。 著名人と言われる人びと、常日頃庶民の味方顔している人びとなら、なぜ自分は辞退して弱者に機会を与えてくれなかったのかなぁ? なぜなぜ・・・こんななぜを考える日本人なら、聖火リレーを妨害などする人がいるわけがない。 大切なのは国の姿勢なのだ。 日本人の姿勢なのだ。 今、私欲にどっぷり浸かっている政治家や有識者の皆様には無理なご注文なのだしょうか。 まぁ土曜日、世界が注目の日本の聖火リレー楽しみに拝見します。
殺人認知件数とは殺人未遂と殺人予備も入っているので、実際に殺された人は600人ほどです。 そして、その原因は心中事件が多くを占めています。 つまり人が人を金品や恨みで殺した数値は非常に低い筈なのに、警察庁はこの数を発表していません。 マスメディアもこれを怪訝に思い、調査報道しようとはしません。 殺人事件だけではなく、他の刑法犯も減少しているのです。 メディアは何をしているのでしょうか? 今の世の中は「危ない」「怖い」と悪戯に危機管理意識を高揚しているとしか思えないのです。 少年事件や外国人犯罪だって年々増加していません。 マスコミは虚偽に犯罪の増加を助長していませんか? 日本の治安は決して悪化していません。 世の中を見張る側と見張られる側に分析したい人々がいるだけです。 少年や在日外国人やニートをスケープゴードにして、自分達の権力や財産を守ろうとする気の毒な精神の人びとが、世の中の方向を決めているのです。 街やビルの中の監視カメラの狂ったような増加はその為です。 権力者は自分の家族さえ疑うのは歴史に明らかです。 メディアも危機管理を煽る企画でTV視聴率や雑誌の発行部数を上昇させるという市場原理にガンジガラメになっているのです。 今、この国には資本主義の一番悪い面が顕著に出ています。 それは国民の生活格差の増大です。 一部の権力者が日本には本来意識として存在しない性悪説を強引に振り回しているのです。 それを監視し問題提起し是正するのがメディアやジャーナリストではないのでしょうか? 素晴らしい春だと言うのに、街中にある監視カメラに寒気がします。
環境問題、食糧問題、民族問題どれをとっても解決の糸口がない。 特に日本に於ける少子高齢化へ向けてのスピードは世界最速だ。 このままでは日本の国家としての存在は百年持つかどうかの瀬戸際だと俺は思っている。 そのくらい危うい処で生活している意識が国家にも市民にもあるのだろうか。 道路財源だの年金問題だので議論や報道をする前に、もっと人類の根本的なところで議論することが沢山ある。 例えば、ガソリンの値段が25円安くなったと大騒ぎする前に、このガソリンは既に地球上で枯渇の時期に入っていることを認識しているか。ガソリンや天然ガスに代わる新エネルギーとして先進各国がメタンハイドレードの掘削調査に血眼になっているのを認識しているだろうか。 このメタンハイドレードこそ21世紀の新エネルギーとの報道も最近あるが報道メディアの認識はその程度なのか。 メタンハイドレードは生物の死体などが高圧低温化の海底の地層に蓄積されたものだ。 このままでは温室効果ガスであるメタンガスなので精製技術が必要である。その安全を保障する技術はまだない。 にもかかわらず、既に試験的掘削は始まっているのである。 良識ある科学者達は十年も前からこのガスには人類は手をつけるべきではないと警告している。 もし、膨大な埋蔵量のこのガスが噴出したらどうなるか・・・。 メタンハイドレードの温室効果ガス濃度はCO2の44倍もある。 地球上のCO2の上昇率が現在の水準でいくと、我々人類を含む全生物の生存猶予期間は80年から160年と言われている。 CO2濃度が大気中で3%を超えたら人類の生存は不可能なのだ。 だから各国が泡を食って環境問題を真剣に考え始めたのであるが・・・。 なのに安全が保障されていないメタンハイドレードに手をつけていいのだろうか。 メタルハイドレードが海底から噴出したら、地球上のCO2濃度は一気に3%を超える事態だって想定しなければいけないのだ。 それを日本の政治家たちはどこまでご存知なのだろうか。 自分達の私利私欲や権力欲で日々、忙しそうにしている政治家達や経済人たちを俺は信用しない。 また、それをのんべんだらりと報道するメディアも同様である。 21世紀の我々人類は実は大変な事態に直面しているのである。 21世紀に産まれた子供達や若者達のために、我々大人たちがやらなければならにことを真剣に考え、行動したいと思う。
日本が一番美しく色ずく季節に友が急いで旅立って逝った。 せっかちな人ではあったが早すぎるよ、丸さん。 先月は全く元気そのものだったのに・・・末期癌ってことはないでしょ。 丸さんは丸岡寿昭さん、友と言ってしまったがとんでもない。 舞台の仕事では俺の大先輩、舞台演出の何であるかを俺は丸さんからたくさん勉強させてもらった。 仕事では鬼のように頑固で厳しい人だったが、人格はとっても人懐っこい笑顔の人であった。 だからみんなに「丸さん丸さん」と呼ばれて慕われていた。 日本のステージ照明を確固たるビジネスにした先達である。 ビートルズから世界三大テノールまでのステージ照明を世界にも負けない文化にまで昇華確立した恩人である。 昨日からやっている東京ドームのX−JAPANのコンサートだって半分以上は照明効果で観客を熱狂させているではないか。 あのステージ文化の礎を築いたのが丸さんなのだ。 しかし、満開の桜に包まれての旅立ちは格好よすぎるよ、丸さん。 桜は日本の男にとっては散る美学ではあるが、もう少し丸さんとやりたいステージがあったのに・・・。 昨年、青山劇場でやったあさみちゆきのコンサートを思い出す。 フィナーレで丸さんはステージに巨大な富士山をバックに8本の満開の桜をセリで咲かせてくれた。 まさに俺の拙い演出に花を添えてくれた。 あれは大好評だったよね。 丸さん、どうもありがとう。 桜の季節の度に丸さんを思い出すよ、きっと。 「風誘う 花よりも尚 我はまた 春の名残を いかに問やせん」
この歌は唄うのもいいが、唄ってもらうのも実に感激なのである。 我が師の恩・・・なのである。 しかし、我が師を変換すると「和菓子の・・・」と出てしまう。 学生達が今日、生まれて初めてこの歌を唄いましたというのも納得。 今じゃ小、中学校では唄わないのだろうなぁ。 さて、ぼくが講師をしている国際理容美容専門学校、本日が卒業式だった。 卒業生360名、特筆すべきは理容・美容科とも国家試験全員合格の快挙をやってのけた。 いや、もっと快挙だと思うのは、360名中76名が皆勤賞なのである。 21%である。皆さんの周りで2年あるいは3年間、一度も休まなかった人がどれほどいますか? 手前味噌で言うのではないが、この学校の若者達は本当に素直で礼儀正しいやつらばっかりなのである。 去年の秋、こいつら全員とヘアーメイクのステージショーを創ったことを式の合間に思い出した。 全員が一丸となって凄い感動が生まれたのだった。 ショーのテーマは「昭和ジャパネスク」 今年の卒業生は昭和最後の年に生まれた若者達である。 明日から社会にでても、時代の流れに棹をさすだけでなく、昭和の良いところは捨てずに継承してくれると思う。 謝恩会も楽しかったよ。ありがとう。 最近、ギスギスした話題ばかりだったから、今日だけは清々しい春を先取りしたような一日だった。 また、明日からは泥んこ道に突っ込むのかなぁ。
最近、特に人間の道路・・・人道に係わる報道に一方通行が多いと思うのだ。 司法制度の脆弱さや見識の無さからしばしば起こる冤罪事件や、三浦和義さんに関する報道、鈴木宗男さん関連の報道、朝青龍や倖田来未へのバッシング、先のイージス艦と漁船の事故関連報道・・・などなど枚挙に暇がない。 その一つ一つをここで述べる訳にはいかないが、全ての報道が総攻撃状態で 救いの手がないのだ。 例えば、イージス艦と漁船の事故、防衛省の危機管理能力の怠慢や情報伝達の稚拙さは指摘されてもしかたがないと俺も思う。 しかし、漁船との衝突事故は報道のように全てイージス艦だけに非があったのだろうか? 確かに海上衝突予防法では全ての船舶は右側通行なので、あの場合イージス艦に右への避航義務があった。 でも規則は原則ではないだろうか。 海での航海を経験した人なら分ると思う。 小さな漁船やプレジャーボートが大型船舶と相対したり、横切り関係が生じた場合、衝突予防法の原則論だけではなく、臨機応変さが小型船舶には要求される。 大型船舶は瞬時に舵を切っての避航な難しいので、小型船舶が逃げることが 多い。特に夜の本船航路上においては小型船舶は、そのように判断することが多い筈だ。 一般の道路で、ダンプカーと数台の自転車が相対した場合を考えてみれば分る。ダンプカーがハンドルをやたらにきったら怖くてどうしようもない。ダンプカーは真っ直ぐ走り、自転車が臨機応変に避けるだろう。 道路の左側通行は原則であって、右側を走る自転車だってある筈だ。 そう云う現状も加味して、報道して欲しい。イージス艦の乗員にも何か言いたい事はある筈だと思う。 それをきちんと報道するのがジャーナリズムではないのだろうか。 全員で一人の僅かな短所を攻撃する風潮は小学生にまで蔓延している。 実はそれが恐ろしい。 今こそ、大人たちの損得勘定ではない、背筋を伸ばした姿勢が要求されていると思うのだけど・・・。
が過ぎた。 凄まじいハリケーンのような報道合戦はまだ続いています。 ぼくはロスの事件を精査したわけでもなく、法律を勉強したわけでもないのでロス疑惑といわれる事件については語るスタンスを持ってはいません。 しかし、三浦和義さんが無罪放免になってからのこの5年間は、お互い良き友だと思っています。 だからマスコミ媒体にも友人というスタンスで、彼のパーソナリティや近況を語っています。 そして想う、この一週間・・・。 日本のマスコミが重心を置く軸足の不安定さを感じました。 三浦和義さんを「三浦容疑者」と呼んでみたり「元社長」などと呼称として変てこな呼び方をしてみたり、まるで朝三暮四です。 日本の最高裁判所が無罪の判決を出した人物を、外国が訳の分からぬ逮捕をしたのに、容疑者と呼んでいいのでしょうか? これが仮にアメリカではなく、韓国、モンゴル、ロシア、コンゴ、チリなどの国でも同じことをしたのでしょうか? 日本で無罪、他国で逮捕された人を容疑者と呼びますか? 鈴木宗男さんではないけれど、これは日本国の司法の崩壊に繋がるのではないでしょうか。 こんな事を大人がしていると、日本の若者達の心が傷つきます。 それと20数年前と同じ報道の大騒ぎは如何なものでしょう。 事件の本質から反れた取材は止めるべきだと考えます。 三浦さんのご家族、ましてや仕事の取引先などは何の関係もありません。 それよりジャーナリストとしてなぜアメリカがこのような行動に出たのかを考えていただきたいのです。 例えば大きな事件や法改正などの目眩ましや国家間の裏取引に使われたのではないのか? ぼくは共謀罪というのが妙に心に引っかかります。 この事件、まだまだ先が読めません。 日本人として、日本国として見つめていきたいと想います。 日本人のアイデンティテイが試される時かもしれません。
取り扱うテーマやゲストも冤罪事件関係が多いのですが、まぁ彼とはそんな友人関係ということで、今回マスメディアから取材を求められていますが、まだ状況が不明のためお応えできません。 ただ、彼のためにノーコメントともしたくないのでこの場で今時点での私見を書いておきます。 三浦和義さんがサイパンの空港で逮捕されたことは、奥様の良枝さん経由の情報で知りました。 ご夫妻から18日から出かけて23日に帰国と聞いていたので正直驚いたのですが、もう一方では「やっぱり」という思いがありました。 以前から彼はアメリカでは召喚状が出るかも知れないと言っていたし、ハワイは危ないけれど、サイパンは信託統治だから大丈夫なんて冗談半分の会話を良くしていたのです。 サイパンは今回が3回目位でしょう、良枝さんの会社の決算が終わった時などに二人でいそしそと出かけていました。 今回、なぜ逮捕状なのか、これは分りません。 ただアメリカでは今、コールドケースの犯罪捜査が盛んに行われています。 今回もロス市警強盗殺人課のコールドケースチームが動いたのでしょう。 でも26年前の事件を何のために? 日米間の取り決めで、事件は両国で個別に立件できるとは云え、日本の最高裁が無罪を支持した事件に介入するのは、日本の司法のメンツが丸つぶれです。当然ぼくのように疑り深い奴は、日米の司法取り引きを考えます。 例えば今、日米間の厄介な問題、沖縄駐留米兵の強姦事件との関連はないのか・・・。 日本の町におけるアメリカ人の犯罪多発との関連はないのか・・・。 まだまだ色々考えられるでしょう。 ただ今回、マスメディアにお願いしたいのは、三浦和義さんが逮捕されたことによって、最高裁での無罪確定はおかしいと云う見方はしないでほしい。 すでに彼を犯罪者扱いで三浦容疑者とクレジットしたTV局もありました。 人道、人権に関しては熟慮を望みます。 さて、次回の三浦かずさんとのトークショーは3月2日、彼は戻ってくるのでしょうか? ゲストは奇しくも三浦さん推薦の元暴走族のヘッド、抗争事件で相手を殺したとされ、懲役10年の刑期を終えてきた男です。 彼も自分のプライドをかけて冤罪を主張して、これから戦います。 そのお手伝いをしようとした矢先の今回の出来事です。 どうなることやら・・・。
ゲストは「暴力的コンゴ人」だの「疑惑にまみれた政治家秘書」だのマスメディアに散々叩かれたジョン・ムウェルテ・ムルアカさん。 身長209センチの大巨人である。 でも2時間語り合って俺が感じたのは、大きいのは身体だけでなく、その精神、志である。 アフリカ人でありながら、日本の武士道精神をその心根に潜ませているのだ。相貌は透き通り睫毛が長い。 嘘をつかない人間の瞳である。 彼の語るアフリカの悲惨な歴史と闘争まみれの血の現実。 白人諸国に踏みにじられた黒い肌の人々・・・。 そして日本人の役割・・・鈴木宗男さんが20回以上もアフリカ諸国を飛び回り、尽力されていた事を始めて知った。 ロシアでも一番信頼されている鈴木宗男さんがアフリカの人々にも「ミスターアフリカ」と呼ばれていることも知った。 ムルアカさんは自分のことより鈴木宗男さんの人間味について目頭を熱くして語ってくれた。 あの瞳に嘘はない。 鈴木宗男と言う政治家をもう一度見つめて見たくなった。 もしかしたら本当の政治家なのかも知れないと思い始めたからだ。 そしてこのジョン・ムルアカという男ともっともっと語りたいと思う。 出来たら一緒にアフリカの大地を裸足で踏みしめてみたい。 いや、アフリカの土に還ってもいいとさえ思う。 だって人類の祖先は只一つ、白人も黄色人も黒人もアフリカ人なのだから。 今日はつくづく再確認した。 鈴木宗男さんといい、ムルアカさんのイメージといいマスメディアの報道は嘘だらけである。 権力者のプロパガンダに成り下がって恥じる事がない。 それにどっぷり浸かっている日本人・・・せつなくなってきた。 外の雪景色よりも尚、心が寒い。
暴力的であり常に粋がっている・・・だから楽しい。 まず相撲は格闘技である。格闘技にルールはあるが容赦はない。 昨今の魂まで無くしたような相撲取りが魅力的な訳がない。 だから今、大相撲を支えているのは、横綱審議委員会がどう御託を並べようと朝青龍に他ならない。 白鵬は横綱ではあるが人格においても技量においても第一人者ではない。 相撲道の根底は武士道の精神の継承である。 だから髷を結い、太刀を持つ。 今、朝青龍の品格を横綱審議委員やテレビ評論屋どもが云々しているが、相撲取りの品格は土俵上においてまず論議すべきものではないのだろうか。 では、先の千秋楽結びの一番、土俵上にて横綱の品格があったのは白鵬ではなく朝青龍ではなかったか・・・。 あの立ち合いの瞬間、張り手から入った白鵬には武士の一分も情けもなかった。あのユルユルに締めたまわしに横綱の品格はない。 でもそれを誰が問題にしたのか? そこを問題にするのが横綱審議委員ではないのだろうか。 あのゾンビのような連中になぜ楽しい相撲を云々されなければならないのだろう。あの横審なるものは、なんのために存在しているのか。 ナベツネだの元NHK会長だの、おじさん顔したおばさんだの、勝者の論理しか持たない超小型キムジョンイル達は相撲を知っているのかさえ疑わしいと俺は思っている。 あの雨戸に鼻をぶつけたような内館おばさんは、なぜ面だけでなく態度もでかいのか? おまけに正義面して御託並べておいて、ちゃっかり朝青龍をネタもした本を出版しているではないか。朝青龍の天敵顔していたのは金儲けの手段だったのである。 所詮、横綱審議委員会なんてそんな輩の集団なのだ。 相撲は一瞬一瞬の勝負である。その一瞬一瞬に武士の一分がなければ、単なる裸の男の闘いだ。面白くもない。 その相撲の本質を書こうとしないのか、書く力量がないマスコミに相撲をとやかく云う権利などない。 スポーツでメシを食わせて貰っているのなら、朝青龍関に感謝するべきである。彼こそ日本の武士道を継承している男である。 おいおい・・・今、ふと思ったが彼がモンゴル人だから差別的な報道しているんじゃあるまいね・・・。
ウィル・スミスが地球最後の男になって、ウイルスに犯された人類のために闘うって云うストーリーである。 予告編が面白そうだったので、ついつい観てしまったが映画そのものは俺の想像を遥かに越えたものだった。 どう越えたかと云うと、マイナスの方向にではあるが・・・。 まず、ウィル・スミスは地球最後の男ではなかった。「嘘つきめ!」 それよりも俺の大嫌いな怪奇ものだったのだ。 気持悪いの何の・・・予告編では見せなかったじゃないの、気持の悪いウイルスに犯された人間達をさ・・・。 まぁその話は今回の枕。 人は人のために死を選べるだろうか・・・。 ウィル・スミスではなく、俵 孝太郎さんが日刊ゲンダイに連載している「辻斬り説法」で書いていた。全世界に爆発的感染が心配されている 「鳥インフルエンザ」についてアメリカ政府がワクチン供給の優先順位をまず 医療・公共秩序の担当者、高齢者としていたのを、高齢者は後に廻して乳幼児や若者優先に改めた。 数に限りのある人工呼吸器を末期がん患者や重症者から外し、若い世代に廻す方針も世論に支持されている。 俵 孝太郎さんはこのアメリカ政府の方針に大賛成と云う記事である。 実際、日本の政治家にこんなことを言える奴がいるだろうか? いいないだろうなぁ。マスコミだって人命に軽重はないなどと絵に描いたような似非正義論を振り回すだろう。 エゴの塊のような勝者の論理しか持たないテレビ評論家どもも、人間差別などと、普段自分達がやってる論理を振りかざすに違いない。 俵 孝太郎さんはこう言い切っている。 「国家国民が危機を生き延び、社会を再建する為に私の命を投げ出す事に何の躊躇もない」 俺も同意見である。 俺達は命をつなぐ為にこそ生きているのだ。 権力や金儲けではない。 ここまで生きてこられた感謝をこめて、若者達にいつでも命を捧げよう。 命の継承とはそういうことだと思う。
宗教、倫理、心理、生物、医学・・・あらゆる人間勝手な学問で人間の感情を統一しようと試みても、人類から殺意を消し去る事など出来る訳がない。 所謂、殺人者が行動に移してしまった殺意と、自己が日常ふと抱く殺意にどれほどの径庭があるだろうか。 それは行動したか、止めたかの紙一重のことである。 一人でも殺せば殺人者、1千人も殺せば大ヒーロー・・・人間社会なんて所詮、これほど危うい基準に浮かんでいる病葉である。 また人類の殺意は人間だけに留まる訳がない。 科学の進歩は人類にとって明るい未来の如く語られてきたが、人類以外の生物たちにとっては生息環境の破壊に他ならない。 科学の進展は地球生命体の滅亡への加速にも成りかねない。 地球誕生から40億年・・・この間、何度となく地球の生命体が全滅している。 恐竜・マンモスの全滅から高々数万年から数千万年・・・それはとても人間などには計り知れない、この宇宙の事情によって繰り返されてきた。 私達生命群も滅亡する。 しかし、人類はそれを自らの手で加速していると思えてならない。 この世界の事、この時代のこと、真剣に考えたい。 私達人類は今、何をしたいのだろう・・・何をしようとしているのだろう。 この地球の全生命群が命の営みに必要な他の生物の命を無駄に奪って、それが人類の進歩のためと云うならそれは違う。 人類の体のいい殺意の転換で作り上げた科学の過ちを総括せず、単にCO2の 削減などと世界の首脳と称する輩が集まったスイスのダボス会議のうそ寒々しいニュースを見てこんな事を想った。 21世紀は科学の夢ではなく、科学の害を世界が語り合う時代にしなければならないのだ。
・・・この言葉さえ憚られるくらい、この正月は正月を実感出来なかった。 何十回も正月を迎えているが、正月の意識を持てない、心を新たに出来ず 口先だけの「おめでとうございます」が言えない・・・のは俺だけではないだろう。 年賀状も遂に書けなかった。年賀状を頂いた方々には申し訳ありません。 マスコミは誰かを悪者に仕立て上げる魔女狩りに始終し、テレビは安っぽいお笑い芸人の氾濫、NHKの紅白歌合戦など大手芸能プロに支配されて、NHKは完全にアイデンティティを失ってしまった。 すでに公共放送としての責務は放棄したのだろう。 新聞の一面は正月から株、ドル急落と大騒ぎ。 こんなこと大多数の日本庶民に必要なニュースなのだろうか? この国はどこを向いて何をしようとしているのだろう。 大多数の庶民が一握りの人間達に支配され、左右されている現実は狂っているとしか思えない。 この50年余り、日本はとんでもない方向へ来てしまった。 世界の国々が今、日本を褪めた目で見つめている。 金儲けではなく、何かをしなくてはいけないのだ。 金が人生、金が全てと言う意識を棄てなくてはいけないのだ。 例えば・・・日本がリーダーシップをとって、この傷ついた地球のために努力することだって良い。 この地球を傷つけてしまった日本の罪は相当に大きいのだから。 46億歳のこの地球が養っている動物や植物の中で、たった一種類の人間が この百年ほどでメチャメチャに破壊してしまった環境を取り戻さなければならない。 毎年、何千と言う動植物が絶滅するのを無視してはいけない。 人間が他の全ての生物を思いやる心が自分達を守ることにもなるのだ。 政治だ、経済だ、金融だと欲のままに生きるのではなく、このかけがえのない地球の危機のために生きる・・・ 俺はマイノリティでもそっちにシフトした。 微弱な人間ではあるが同じ魂を持った人は必ずいるから・・・。 百年後の世界の子供達に素晴らしい地球を見せてあげよう。 人間の科学で厚化粧した世界など、結局は砂上の楼閣に過ぎないと思う。
これは昭和55年 東京田園調布に住む資産家の男性が失踪し、五年後にこの男性を殺した容疑で一人の男が逮捕されました。 高級住宅地の田園調布、そして被害者が資産家ということで当時のマスコミは大騒ぎをしました。 三浦和義さんの「ロス疑惑事件」と同じ頃です。 ワイドショーを騒がせた二大事件でした。 それから20年の歳月が流れ、その逮捕された男が先月釈放され今、俺の前に座ってにこやかに二人でコーヒーを飲んでいます。 人生の不思議な縁で先週の木曜日、田園調布に程近い自由が丘の喫茶店でお会いしました。 折山敏夫さん。中肉中背64歳の温和な顔はとても殺人者には見えないし、 20年間も千葉刑務所に服役していたとは思えない爽やかな相貌です。 この事件は調べれば調べるほど合点のいかない事が多すぎます。 まず、まず折山さんが資産家の男性を殺したとされる年月日が特定されていないし、殺した方法も凶器も場所も不明なのです。 目撃者もいません。物的証拠も何一つありません。 では、なぜ逮捕され最高裁での上告棄却になって懲役20年の刑が確定してしまったか・・・。 それは本人の自白とされています。 でも折山さんは俺にも 「自白はしていません。やってないのに自白は出来ません。警察官と検事の証言だけなんです。」 と真剣に訴えられました。 犯罪捜査の暗闇。 確かに当時の資料によると警視庁での取調べは136日間という異常な長さです。あの隔離された取調室で136日間責められたら人間は狂います。 俺にもそれが正常なやり方とは思えません。 「冤罪」折山敏夫さんのケースもこれなんじゃないか、俺の印象です。 冤罪事件はいつ我が身に降りかかってくるか知れません。 電車内の痴漢容疑なんてまともな男でも防ぎ様がないからね。 そこで、冤罪事件では第一人者・・・いや大先輩・・・いや大御所・・・まぁなんでもいいや、自ら冤罪を晴らした三浦和義さんとのトークライブに折山敏夫さんをゲストに迎えて「田園調布 資産家殺人事件」を検証することにしました。 期日は新年の1月6日 日曜日 昼の12時開演 東京 代官山のライブハウス「晴れたら空に豆まいて」です。 まだ、マスコミにも未発表、どうぞいらっしゃってください。 とんでもない話が聞けると思いますよ。
立法・司法・行政、この三権に現代は報道を加えて四権と言う。 報道は勿論、国民に代わっての三権の監視役である。 この三権が勝手に動き回り、それぞれがそれぞれを触らない以上、報道の果たす役割は大きい筈なのだが、どうだろう。 俺は今の報道機関は真実の一部しか伝えてないと思う。 北朝鮮の拉致問題にしろ、亀田親子の問題にしろ、特に政治などテロ特措法や民主党小沢党首の辞任パフォーマンスにしろ、マスコミ報道は真実の一部しか伝えていないのである。 またこの国の国民も真実の一部で満足し、次の事件を首を長くして待っている有様である。 見えざる何かに飼いならされてしまっているかのようだ。 マスコミが自ら独裁国家のような働きをしてはいけないのだ。 事件の新たな真実を考えなくては、事件の裏を見つめなければこの国は本当に堕落してしまう。 国民が本当の真実を考える手助けをするのがマスコミではないのだろうか。 真実の一部だけで信じてしまう・・・。 実はこの意識構造が一般社会にも蔓延している。 会社でも学校でも団体でも、一部の真実だけで悪しきに判断されてしまう弱者がいかに多いことか。 真実の一部をチラつかせ、弱者を圧迫するのが、この国の権力者の常套手段なのだ。 宇宙に真実は只一つである。 その真実を閉じ込め、封じ込めてはいけない。 報道が出来ないのなら、心有る国民がやらなくてはいけないと思う。
である。 「誰がカモだか判らない時は自分がカモだ」 特に最近のこの国は、あっちでもこっちでも集団でカモを作って集団で攻撃する、まるでブームのように。 このカモ・・・早い話が悪役である。 みんなで悪役を作り出して攻撃する。みんなでやりゃ怖くないってなもんだ。この集団的悪役作りには一般人も政治家もマスコミさえ参加する。 先進国でこんなことが日常行われているのは日本が一番だろう。 なぜならこの国は多神教の国だ。一神教の国のように国家や民族の共通概念が希薄である。国や民族のアイデンティテイがない。 辛うじて昭和時代までは「論語」などがこの国のアイデンティティに一役かってくれていたが、平成時代にはそれがない。 そんなことが起因して国単位、地域単位、組織単位で日夜、それぞれの共通項である悪役作りが行われているのだ。 だからこれには国も地域も組織もマスコミさえ参加している。 最近では相撲の朝青龍。ボクシングの亀田親子。 そして今日、国会で証人喚問された守屋前防衛事務次官。 彼らはみんな集団的な、ある意図で作り上げられた時代のカモである。 国や全マスコミ挙げてお祭り騒ぎするほどの問題ではない。 守屋のおっさんなど、なんで今更俺が?と思っているだろう。 そりゃそうだ、守屋のおっさんは自民党のスケープゴード、野党の政局に使われているだけだもの。 この集団的カモ作り、悪役作りが今、会社組織や学校、住居地域にまで蔓延していることが怖い。 俺の知っている会社なんか、四六時中社内に悪役を作って社長を先頭にみんなで攻撃している。 こんなことをするしか権力の存続が出来ない事実が遣る瀬ない。 とにかく悪役を次々作らなくては人間のまとまりがつかないのだから。 そんなことをのんびり書いている、この俺も今、カモになっている気がする。 いやぁ、マサカとは思ったけれど、どうやらこの俺が、ある集団から悪役にご指名されたようなのだ。 面白い、カモが時には鷲に変身する様を見せてやろうじゃないの。 って、これじゃなんの事やら分らんよね。 まぁこの事は後日、書籍にして公開するからお楽しみに!
台風20号通過の暴風雨模様の中、満員のお客様に来ていただき、熱いステージを演出することができました。 あさみちゆきを始め全ての出演者・スタッフが見事に纏まって、素晴らしい内容だった事を誇りに思います。 井の頭壮年合唱団の皆さんも楽しいステージでしたよ。ありがとう! 今回のこのショーもそうだけれど、阿久 悠という稀代の作詞家の歌に託した志を繋げていきたいと言う俺の気持を皆が賛同してくれてステージが出来上がっています。 これは俺が毎月一回、青山のライブハウスでやっている「阿久 悠を唄う」 も同じです。 今月の14日は20回目だったこともあり、出演希望のゲストもあふれ、お断りしてしまったアーティストもいました。 お客様もハウスの床が抜けるほど来ていただき、ホスト歌手の大至など感激で泣きながら唄いました。 でも最近、残念なのはこの僕達の活動を営利目的と単純に思い込んでいる人々がいることです。 ライブハウスなどのショーは金儲けなど出来る訳がないのに・・・。 阿久 悠さんが歌に託した社会へのメッセージに賛同した人間が、一生懸命やっているのに、それを冷めた目で目詰めている人たち・・・。 哀しい人々だなぁ。 そんなに金が大切なんだろうか・・・。 文化の夢を広げるのに、なぜ経済を持ち出すのだろう。 文化は経済に馴染まないことを、なぜわからないのだろう。 もっともっと、人間を大切にしようよ。 人間が人間に興味を持つ意義を忘れた人ほど、哀れな奴はいない。 金や権力より、広がる夢のある会話が出来る人が、俺は大好きだ。 阿久 悠さんは「歌は人の心と心を結んで行く力がある。だから音楽に携わる人間はその結び手にならなければいけないんだ」と熱く語っていた。 今、人の心の結び目を、解いてまで生きていこうとする人が俺の周りにもいる。 なんとせつない人たちなんだろうか。
まずは党三役人事から談合見え見えの派閥人事だ。 協力してくれた各派閥の首領たちのご意見で、党三役が前代未聞の党四役だってさ。 最高権力者の権力者たる所以は人事権にあるはずなのに、福田おじちゃまは あっさり放棄して古賀の狸の言い成りだ。 もう組閣など勝手にやれば・・・ってな気持。 楽しい話をしよう。 そうそう最近映画も自民党の閣僚みたいに外ればかりだったけれど、久々のヒット作に出会った。 「さらば、ベルリン」 監督はスティーブン・ソダーバーグ、今アメリカで最も元気がいい監督だ。 この映画は40年代のテイストを忠実に再現したいためにモノクロでの撮影。 CGを使えば簡単な戦争直後のベルリンの町も、当時のニュースフィルムを使っていい味を出している。 で、ストーリーは殺人の裏に潜む政治的陰謀とラブロマンスというこの手の映画の定番。 どこかで見たことあるぞと思ったら、あの「カサブランカ」のパロディで監督が遊び狂っているではないか。 これで気分が楽しくなった。これぞ映画、これぞ娯楽。 マイケル・カーチス監督もあの世で抱腹絶倒してると思うと笑える。 設定はベルリンとモロッコの違いはあるが、ハンフリー・ボガードがジョージ・クルーニー。イングリッド・バーグマンがケイト・ブランシェット。 時代も1940年。 それでラストシーンはトレンチコートと飛行場というお約束場面構成。 ほとんどの登場人物が煙草を吸いまくっていたのも楽しい。 エンターテイメントってのは金かけて派手にドンパチしなくても監督の腕一本でステキな作品が出来上がる。 だからさ、この映画を日本人に観てほしい。 映像文化が人間をいかに豊にしてくれるか・・・政治が駄目なんだからこれしかないよ。
土居 甫さん、本日ご逝去の悲報が目に飛び込んできた。 60年代から70年代の歌謡界は振付家・土居 甫によって一変し華やかにして楽しい世界になった。 当時、振付師は何人かいたけれど、土居 甫の振り付けはいつも斬新でアイデア抜群であった。ピンクレディを始めスター誕生出身歌手のほとんどは土居 甫の振り付けでステージを飾った。 俺と土居 甫さんはある一時期、べったりいつも一緒状態だった。 スター誕生という番組の俺は台本書き、土居ちゃん(当時はそう呼んでいた。土居ちゃんは俺をシゲルちゃんと呼んでいた)は振り付けとステージングを担当していたので始終顔を合わせていたのだ。 特に三ヶ月に一回ある日本各地での公開録画の時は泊まりになるが、土居ちゃんと俺はいつも二人で相部屋であった。 二人でつるんでよく悪さもしたなぁ。バカな遊びの武勇伝には事かかない。 目を閉じると土居ちゃんのかすれたハスキーな声が聞こえてくるようだ。 それとあの細目の笑顔・・・。 実は一昨日、阿久 悠さんの四十九日法要を終え、飯田久彦さんから土居ちゃんが都内の病院のICUに入院している事を聞いた。 面会が出来ない状態と知り、気がかりだったのだ。 土居ちゃんも死んじゃったんだね。 そうそう、新聞で土居ちゃんの年齢を知り驚いた。 俺よりずっと年上だったんですね。そう言えば二人で年齢の話なんかしたことなかった。ごめんなさい、タメグチきいちゃって。 でも今日は許してください。 土居ちゃん!楽しかった日々をありがとう。 さようなら。ダンディな三枚目の土居ちゃん・・・。
自民党員のなんと生き生きとした顔、顔、顔、盆と正月が一緒に来たような笑顔だらけ・・・のように俺には見える。 今、この国の国民の多くはどんな生活をし、どこまで追い詰められているのか政治家やマスコミ人はご存知あるまい。 今日一日でも100人以上の日本の人々が自殺しているのだ。 知っていりゃこんなバカな騒ぎなど出来るわけがない。 その上寂しいのは、安倍首相の言語道断の行動になんでこの国の学生諸君、 右翼のみなさん、左翼の方々・・・論客と呼ばれる人たちが抗議行動のひとつも起こさないのだろう。 民主党まで死んだ振りしてるのはなんなのだろう。 あの幼稚な二世おぼっちゃまの安倍の責任問題をなぜ糾弾しないのか。 あの行動は犯罪に等しいのではないのか? あの行動は間違いなく世界中の笑いものである。 世界の歴史上にもいないよ、あんなバカな首長は。 あの行動で日本国民が世界の人々からバカにされているのだ。 これは国民一人一人への侮辱罪ではないのか? なぜ日頃偉そうな事を言っているテレビ評論屋さんたちは黙っているのか? 少なくとも安倍首相が日本人の尊厳を傷つけたのは事実である。 「美しい国」が聞いて呆れる。 このおとしまえは付けなければいけない。 さらにこの国会を空転させバカな政治家どもがアホ騒ぎをしている、この空白で使った金を精算するべきである。 あいつらが会議と称して一流ホテルや料亭に払う高額な金は俺達の税金ではないのか? いったい今回幾ら金が浪費されたのか? この間、遊び呆けているほとんどの与党、野党の国会議員の歳費が幾らになるのか? 国会空転のその部分も精算し、この全ては安倍首相に請求するべきだと俺は思う。 俺達の日常では、自分の勝手な行動で起こした損害は弁済するのが常識である。それをなぜマスコミは取り上げないのだろう? この国は本当に腐敗している。 情けない。 でも国民は国を棄てる事が出来ないのである。
昨夜から今日のニュース・ワイドショーはこの映像で賑やかだが、それを見つめつつ気持が沈んでいくのは何故だろう。 約千人の参列者に来て頂いた。 作家・作詞家・阿久 悠の偉大さを改めて感じた人も多かった筈だ。 皆さん、それぞれが阿久さんとの想い出を偲びつつ過ごされたと思う。 マスコミ報道関係者も大変な数だった。 もっとも彼らの目的は、参列した大勢の歌手達の取材であったけれど。 俺は盛大な式典の進行係りをやりながらも、なぜか心が晴れなかった。 「阿久さん、こんなに来ていただいて良かったですね」 と遺影に心から言えない自分を感じていた。 粛々とお別れに来るよりも、阿久さんの体調が優れない時に声をかけ、元気をつけて欲しかった。 「さようなら」より「こんにちは」の言葉をかけて頂きたかった。 癌と闘ったこの6年半の時間を共有した俺はそう思うのだ。 でも、会場で楽しい事もあった。 過去に仕事上や些細な人間関係で別れてしまった演出家やプロデューサーの仲間たちが沢山来てくれた。 つまらない事で意思の疎通をかいた仲間達にも会えた。 そして今の俺の良き仲間達も・・・ みんな阿久 悠さんが会わせてくれたのだろう。 この日、俺の現実世界から何かが消え、過去の世界から何かが浮かび上がって来たように思える。 俺の歩く道が大きく変わるのだろうな。 これも阿久 悠と云う男の存在感なのか。 今週、阿久さんの「四十九日法要」が済んだら、その道がはっきり見えてくるだろう。
この閉鎖された世の中に小さな風穴でも開けようよと始めたのだが、ますます面白くなってきた。 今月のゲストは俺の希望もあって、右翼・一水会顧問の鈴木邦男さんである。 俺は愛国心について語りたかった。 最近、政治家の口からやたら、愛国心が語られ憲法にも入り込んできた。 安倍首相も美しい国だの、愛国心だの言っているが、あの首相の言う愛国心とは何なのだろう。 俺には愛国心などない。愛国心の意味すら分からない。 ふるさとの海や川や森をいつまでも慈しむ気持や人間への優しさや弱者へのいたわりの心ならあるつもりだ。 でも愛国心といわれてもなぁ。具体的に何をどうしてよいのかわからない。 右翼の鈴木邦男さんは愛国心についてこの国に殉ずる心だとおっしゃった。 そのとおりだ。それが右翼である。 鈴木邦男さんは激しい心とは裏腹にやさしい穏やかな表情の男である。 その彼が右翼は国に殉ずるとキッパリ言い放った。 最近、左翼の人々が弱くなったためか?右翼も少々元気がない。 多少のエールを贈っておきたい。 さて、困った首相の愛国心であるが、愛国心とは右翼の言動でも分かるように究極的には国家に命を捧げる覚悟を持つ事である。 どう奇麗事で取り繕っても、愛国心とはそういうことなのだ。 その愛国心を今の政府は国民に求めているのである。 国に命を委ねることが美しい日本人なのか・・・。 これでは戦前の政府や軍部と同じではないか。 その安倍首相、新閣僚がまた粗相をやってるのに、国民の前にノーネクタイで登場である。クールビズはお行儀に勝るのか・・。 民主党員や閣僚のほとんどがネクタイしているのに・・・安倍のおぼっちゃま君にはブレーンやご家族はいないのか? お行儀を誰も教えてやらないのだろうか? 今日のニュース見てると安倍首相は完全に裸の王様状態である。 一日も早い御退陣をお薦めしたい。
俺はそれまで不覚にも、この事件には関心もなく存在すら心中にはなかった。数年前、週刊現代がやたらとJR東日本の労組に革マル派がいるとかなんとか、しつこくキャンペーンをやっていた記憶があるが、あれに関係のある事件なのだった。 この事件を知らないのは皆さんも俺と一緒だと思う。 実は大変重要な事件なのだが、なぜかマスコミは報道しようとはしない。 これでは知る術がない。 なぜだろうか? なぜマスコミはこの事件を報道しないのか? 実はそのことが恐ろしいのである。 この事件の内容に関しては、ここでは割愛するが、とんでもない事件なのだ。(関心のある方はネットで検索してください) 俺も被告の方にお会いする前に、俺なりに事件の概要は調べ上げた。 どう考えても冤罪に近いと思える。 事件そのものは実にちっぽけな、どこの会社にも日常茶飯事で見られる言動なのである。 それをなぜか警視庁の公安が乗り出して7名を逮捕し、検察は344日間の長期拘留をかしたのである。 法律に詳しい方ならすぐ分かるはずだ。あり得ない事件なのである。 なぜこうなったのか・・・ひとつ考えられるのは、7名の所属するJR東日本労組・JR総連は今や日本に唯一残されたような、経営者の権力に屈しない本来の労働組合なのである。良き昭和時代の良き労働組合なのだ。 今や大企業の労組は経営者の総務部みたいに成り下がっている。 労働組合の存在はそんな事じゃないだろう・・・とみんな思っていると思うが目先の生活の為には背に腹は替えられないのがせつない。 JR西日本もJR東海も労組は変質してしまった。 労働者の唯一、最後の砦がJR東日本なのである。 そこに突然、国家権力が介在しマスコミは知らぬ顔を決め込んでいる。 これでは素人でもJR東日本労組つぶしと思ってしまうよ。 この国は今、やはりおかしい。 俺はまだこの事件が冤罪だとは断言するほど情報がなく、勉強もしていない。でもこれからはこの事件の展開に関心を持つつもりである。 何だかおかしい・・・そんな直感はするのだ。
阿久さんの歌の中からこの国や日本人へのメッセージを拾い集めてトークと歌で綴るショーだけど、今回は辛かった。 阿久 悠さんの追悼ライブにする気は毛頭なく、いつものように粛々と進めるつもりでいたが、超がつく満員のお客さんを前に阿久さんの歌詞を見つめるだけでこみ上げるものがあった。 出演者やバンドメンバーやお客さんに涙を悟られまいといやー辛かったよ。 それにいつもはライブが毎月の第二日曜日で次の日が阿久さんの透析治療の日なので、俺はライブをCDに録音して病院への道すがら車の中で阿久さんに聞いてもらうのが楽しみだった。 今週の月曜日、CDはあるが聞いてくれる人がいなかった。 まだまだ阿久さんの存在が俺の日常には残ったままだけど、いないことをこうして確認する事は辛い。 満員のお客さんの前でも俺は、これから阿久 悠さんの志や理念を継承してゆくなどと語ったが、時間経過と共にそれの困難さが圧し掛かってくる。 それが俺にできるのか? 「一をもって 之を貫く」を見事に実践した阿久さんであった。 その一とは「作品は派手に 生活は地味に」である。 哲学は「やせ我慢」なのだ。 最近の著名人では数少ない晩節を汚す事のなかった人である。 今の日本人はノブリスオブリージェがなさすぎる。 特に権力者や金持ち気取りにそれが顕著だ。 勿論、政治家連中も同じ穴の狢である。 俺にはノブリスオブリージェがあると言ってるわけではないよ。 俺もまだまだだよ。おっと横道にそれた。 だから、その阿久さんの志を継承するなんてとても俺には出来そうにない。 出来そうにはないけれど、何か方法論が見つかるかもしれない。 そう信じて考えてみたいと思うのである。 それをやらなければ、俺は阿久 悠のただ一人のブレーンなのだから。
海に面し伊豆の山々に囲まれた緑の中で、阿久さん、いや深田公之さんの密葬が静かな時の流れのままに行われた。 近親者だけのゆったりとした急ぐ事のない葬儀だった。 蝉たちの声が葬送の音楽のように・・・。 阿久さんとの6年半に及んだ壮絶なんて言葉では済まされない闘病が終わったのがまだ実感としてはない。 葬儀の間にも次の透析はいつだっけ・・・などと考えてしまったほどだ。 必ず来るお別れの日は覚悟の上とはいえ、その日の訪れは早すぎた、突然過ぎた。心に準備が出来なかった。 もっと闘えた筈だ。今までだってあらゆる危機に連戦連勝だったのに、阿久さんはうっかり深い眠りについてしまった。あまりにも安らかな眠りだったので起こせなかった。そんな想いの最終章だった。 俺をシゲルちゃんと呼んでくれる貴男がもういない。 貴男は人間にはなかなか出来ない事を二つも同時にやり遂げた偉人だった。 作詞家・阿久 悠としては歌謡界に燦然と君臨したけれど、決して統治しようとは思わなかった。支配力、権力欲は優しさにすりかえていた。 人間・深田公之としては男のやせ我慢を貫き通した。 生活は金殿玉楼ではなく、幸せはささやかな暮らしにこそ宿ると信じていた。そんな素晴らしい男が昨日、天に翔んだ。空の上からあの素晴らしく、美しく、優しい言葉を雨・霰と降らしてくれるだろう。 それを拾い集め、人びとに伝えるのが阿久 悠ブレーンとしての明日からの俺の仕事である。天に飛翔した阿久 悠さん・・・戒名は・・・ 「天翔院詞聖悠久居士」です。
何千曲も素晴らしいドラマと云う歌を大空に飛ばしつづけた阿久さんが、自分自身のドラマはあっけなく、そっけなくエンディングにしてしまった。 今朝の明け方、消えかけた生命を前に俺は阿久さんの素足を撫で続けた。 その行為に何の効果があるのかは分からない。 心臓マッサージをする医師の傍らで俺はだんだん冷たくなって行く阿久さんの足を擦りつづけた。 「ご臨終です」午前5時29分、機械的な医師の最後通告を聞きながらまだ擦りつづけた。」 6年半、俺は阿久さんと共に癌と闘いつづけてきた。 けっして負けたとは思わない。 阿久さんはサムライのように美しく闘った。 癌との闘いにも男の鮮やかな美学を貫き通した。見事だった。 惚れ惚れした。 阿久さんの足を擦りながら、無念の遺志が手先から伝わってくるのを待っていた。 それが来たかどうかは、ここではいい・・・。 今日、偉大な志は天に昇っていったが、あの素晴らしい歌のように俺達の頭上に降り注いでくるに違いない。 俺のこれからの役目はその遺志を受け継いで日本中に更に振りまく事だ。 それを阿久さんにきっちり誓ってきた。 さようなら、兄貴!
政治家にも器が大切である。ましてや閣僚ならば。 社会主義、独裁主義より民主主義がいい・・・は幻想に違いないと気付き始めた人々がいる。 俺もその一人だ。 人間が複数集まり社会を構成すれば、そこに秩序が必要になる。 秩序を求めれば、そこに権力が必要になる。 権力を集中すれば独裁になり、社会主義が生まれる。 しかし、同じ権力を分散しただけなのがこの国の民主主義ではないのか。 権力を集中すれば責任も集中するが、分散すれば責任も分散する。 この国の民主主義は責任感の分散・・・俺にはそうとしか思えない。 地方分権などますますの責任感の分散どころか、なすり合いである。民衆が痛めつけられても誰の責任だか分からないようにしてしまっている。 なんのことはない、あっちこっちにキム・ジョンイルがごろごろいるだけなのだ。 今の内閣など正にキム・ジョンイル内閣である。ほとんどの大臣が政界だけに存在するという世襲制度で押し出されてきた輩ばかりではないか。 能力は関係ない。世襲だけの地位なのである。 ほとんどの大臣がおぼっちゃま育ちゆえ、口の利き方も、金の使い方も知らない。放言や使途不明金など当たり前の話なのである。 マスコミが騒いだって、「えっなんの話?」ってなもんだ。 次元が違うのである。 ましてや国民の心などに触れたことがないから知る由もない。 金 正日型民主主義、みんなで国民に押し付ければ怖くない。 そんな連中がこの国を牛耳っているのである。 そして知らない間にこの国は、とんでもない格差社会になってしまった。 今の税制など一生懸命に働く人を痛めつけているとしか思えない。 しかし、その社会を造ってしまったのも、また俺達国民なのである。 来週の参議院選挙、俺達弱者の最後の底力を見せつける時だぜぃ! ここでアクションしなければ国が死ぬ。
その2%は実際に自殺を企てている。 俺にはもともと自殺を否定する考えはないから、そういう人びとを弱者だなんて思っていない。 自殺は誰にでも平等に与えられた自分自身で決められる数少ない手段である。誰だって死ぬ瞬間は一人で引き受けなければならない。 誰だって他人に殺されたくはない。 だから自分の意思で死ぬ瞬間は幸せに違いない、少なくてもその人の現実よりは・・。 俺自身も死ぬ時は自殺と決めている。 人には殺されたくない、ましてや病気などに殺されてたまるかい。 死ぬ方法も決めてある。だから死ぬ事は少しも恐ろしくない。 むしろ楽しみである。 こんなこと言うと、すぐ善悪や良し悪しや清濁のモノサシで意見を言うのが世間だが、俺はこの共同体の二元論的な概念が大嫌いである。 あの右翼民族派の野村秋介さんが言っていた。 「俺に是非を問うな。激しい雪が好き」・・・と。 俺は右翼でも左翼でもないが、なんでも二元論で解決してしまうこの国の政治家、役人、マスコミ、有識者連中は大嫌いだ。 人間の考えはもっと自由で良い筈なのだ。 生と死は等価なのかを自分自身に問うてみてください。 そうすれば人生には弱者が勝つ瞬間が必ずあることが分かるし、この国の一割の労働者が抱いている自殺願望が心から理解できる筈なんです。 人生はいつもリスクがある方向に進まなければ何も生まれません。 俺達は死ぬために生きているのだし、死に向って生きているのだからね。
盟友三浦和義さんとは1年間くらい続けるつもりでスタートしたが、やればやるほど面白くなってきて、どちらともなく無期限続行の雰囲気である。 まぁこの間には三浦さん自身がゲスト以上にマスコミを賑わす騒動を起こしてくれたりして実にスリリングなトークショーである。 で、今日のゲストは日本初のハードコア本番女優の愛染恭子さんであった。 まず聞きたかったのは、先日マスコミを騒がせた「14歳の姪に対する暴行事件」の真相だ。 事件は逮捕された愛染さんが50万円払って釈放された罰金刑だった。 姪に対して教育のために手を上げた事が暴行罪になるのだろうか。 しかも逮捕されたのは愛染さん一人ではなく、愛染さんのお兄さん・・・つまり姪子さんの父親と愛染さんの母上・・・つまり姪子さんのおばあちゃんである。同居の家族が全員逮捕と言う異常な展開の事件だった。 これに対しマスコミは愛染恭子がいかに悪い女であるかを突付きまわし、さらには一人の男を姪ととりあった三角関係とまで面白がって報じたのである。でも愛染京子さんが淡々と話してくれた真相はまるでニュース報道とは違う。 本当に今、日本の警察内部では何が起きているのだろうか? 事件に対する捜査力の激減は、何が原因なのだろう。 またその警察報道を鵜呑みにして取り上げてしまうこの国の報道機関も病んでいるとしか思えないのだ。 三浦和義さんの万引き騒動も愛染恭子さんの暴行騒動も、真相を知れば有罪はありえない、無罪であり冤罪事件ではないか。 和歌山毒カレー事件の林 眞須美さんだって冤罪の可能性のほうが大きいと俺は思う。旦那の林 健治さんと会って話をして本当にそう思うのだ。 この国は事件の真相がキチンとでる国になって欲しいと願うし、今は小さな力しかないが、このトークショーを続けていかなければならないと痛感するのだ。社会への小さな風穴でもいい。まず開ける事が大事なのだ。 最後に愛染恭子さんとは数十年前にテレビでご一緒した仲である事が判明した。この先、ポルノとか風俗ではなくアートとしての女性美を創りだす仕事をご一緒したいと思う。 俺にそう思わせるくらい今日の愛染恭子さんの目は澄んでいて綺麗だった。 この瞳の人が意味のない暴行などする訳がない。
作家の五木寛之さんが新聞にこう書いていた。 この記事を読んだ俺は小躍りするほど嬉しかった。 梁塵秘抄は12世紀に後白河院によって編纂された全20巻566首からなる平安後期の短唱叙情歌謡集である。 京都の今様と云われた流行風俗、世相の変転を鋭く浮かび上がらせ、また軽妙なタッチで時代性と人間性を捕らえている作品が多い。 「声技の哀しき事は、我が身隠れぬる後、留まることのなき也」 梁塵秘抄のこのコンセプトはまさに、俺と仲間達が毎月一回青山のライブハウス、月見ル君想フで開催している「ライブ・阿久 悠を唄う」のコンセプトそのものだからである。 五木寛之さんに背中を押されるまでもなく、俺は現代の梁塵秘抄をすでに編纂し始めているつもりである。 昨日の「阿久 悠を唄う」は16回目、テーマは「歌の中のオノマトペ」である。この一見難しいテーマ、なかなか面白く展開できたと思う。自画自賛かもしれないが・・・。お客さんもいっぱい来てくれた。 大至、中島マリ、深田太郎、森友美子、横森 文、ゲストの元タカラジェンヌ真園ありすさん、コメディアン坂本ちゃんのボーカルメンバー。 バンマスの森藤晶司、花輪直弥、宮坂 薫、アキレス健のバンドメンバー。 小さなライブハウスに毎回こんなに大勢が集うのである。 お金が目的ではない。使命感のような重たいものもない。 でも月に一度のこの集まりが、みんなのパワーになりまたやすらぎになっているのだ。 これは制作スタッフやお客さんたちも同じなのだろう。 だからいつまでも続けていくつもりである。 まだ見たことのないかたはぜひ見に来てください。 毎月第二日曜日、正午開演です。
シルヴェスタ・スタローンのボディにはガックリきたなぁ。真面目に身体を鍛え上げたとはとても思えない全身これフルドラッグって感じの見るに忍びない身体ばかりに目がいってしまった。 俺自身もボクシングが大好きで、今でも週一回はジムでトレーニングしているし筋トレだって週二回はやっている。 俺の身体は勿論ノードラッグ製であるぞ。 俺のボクサーとしての夢は世界チャンプになること・・・スタローンに負けちゃいないのである。シニア級ではあるけどね。 その俺が観たこの映画、ファイティングシーンは面白く創っていたけれど、ストーリーがチンケな父子愛じゃねぇ。スタローンのボディももう見たくないし、本当にファイナルでいいんじゃないかな。 「パイレーツ・オブ・ザ・カリビアン」 こちらもファイナルだというので、渋々観にいったがコリャやっぱり・・・ ってのが俺の感想。 前回はキャプテン・スパローがタコに喰われてお仕舞いという実に気持の悪い幕切れであったので、誰がもう観るもんかと思っていたのだが、つい怖いもの観たさでうかうか観にいった俺がバカだった。 三時間もあるだらだらストーリー・・・もっとも俺はその間に一時間半は居眠りしていたが。 もう完全に制作スタッフがジョニー・ディップへのゴキゲン伺いに創った駄作である。 あっちこっちに撮影現場でジョニーが思いつきで決めたのであろう楽屋オチのオンパレードである。 あの製作者達とジョニーは間違いなく、今回をファイナルにはしない。 断言できる。あんな映画で日本人は尻尾振って観に来るんだもの、美味しいよね。俺も尻尾振ったひとりだけど・・・。 「300」・・・スリーハンドレット これは結構シリアスな歴史スペクタクルだと思って観に行ったのだが、なんじゃこりゃ・・・が感想。 300人vS100万人の軍隊の戦い・・・。どこが?といいたいね。 戦ってるのはいつもニ十人程度じゃないか。 時々見せるCGの大軍勢はとても人間とは思えないシロモノである。 とにかく二時間無意味な殺し合いの連続、剣捌き、槍捌きにも何の工夫も無し。戦いそのものに工夫がないのである。空から無数の弓矢が雨のように降り注ぐシーンが2回もあったが、これは完全に中国映画「英雄」のパクリである。 この映画の最悪はスパルタのレオニダス王の人間味が何にも描かれていないことである。だから攻め込んでくるペルシャ軍も漫画そのもの、目的がよく分からない。残酷だけのアクションゲームが好きな世代にはいいかも知れないが、まともな大人にはとても無理な作品であった。 こういう映画を褒め称えてる映画評論家って人々は、どこ観てるのかなぁ。 これじゃ「ダイハード4.0」も思いやられるよ。 [↓前の100件] [トップページへ戻る] |