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その福島県双葉町の人々を形容するに、理不尽・不条理・不憫…どんなに言葉を捜しても見つかるものではない。 ボクの微細な作家の能力では、とても書き表せるものではないのです。 まさに事実は小説より奇なりであろう。 昨日はまず、観光バスで皆様を東京の国際理容美容専門学校へお招きし、ヘアーカット・カラーリング・エステ・ネイルアートなど等、お望みのサービスを差し上げた。 学生と教職員が皆様のあらゆるリクエストにお応えしようと懸命に施術していた姿が頼もしく瞼に浮かぶ。 皆様が美しく笑顔になって頂いた後は、バスで浅草やスカイツリー見物、そして水天宮での初詣の正式参拝、その後皆様と一緒に食べたお弁当が美味かった。 そして皆で人形町界隈の散策…甘酒横丁で甘酒を立ち飲みし、歩きながら鯛焼きをほお張った。 まぁおじさんおばさんたちがワイワイ言いながら、食べ歩きする姿をみた人たちは、きっとその人々が福島の原発被災者だとは、想像だにしないだろう。 原宿や渋谷の若者たちにも元気さでは負けていなかった。 たった一日のお付き合いでしたが、一瞬でも辛さを忘れていただけたら幸いです。 笑顔と元気を差し上げるボクたちが、逆に大きな元気を頂いてしまったのかも知れないと感じています。 今回のボランティア支援は昨年立ち上げて実行している「被災地に笑顔を」実行委員会の今年最初のアクション。 神社本庁・産経新聞社・国際理容美容専門学校他、多くの団体、企業による委員会です。 今年も更に多くの力を集め、ボクたちならではのボランティア活動を行います。 今回ご尽力いただいた全ての委員、スタッフの皆様に感謝します。 そして、これからずっとずっと同じ日本人として多くの震災被災者の皆様に寄り添い、辛さや痛みを共有出来ればと願っています。 尚、昨日のボランティアの様子は、本日発行されている産経新聞に掲載されています。
人間長く生きていると、道は二つしかないことに気付く。 棺桶まで金と権力にしがみ付くか、世の中にご恩を返す為に働くか… であろう。 ボクは迷うことなく後者の道を選んだ。 その一歩が、日本脚本家連盟理事就任だった。 ボクが40数年間お世話になった放送・芸能界へのご恩返しである。 更にこの日本脚本家連盟が協同組合であることに、ボクは大いなる希望と目標が持てるのである。 協同組合と言うと、労働組合と混同されることが多いが、かなり両者のふり幅は違う。 協同組合は目的、計画、権利の達成保全の為に同じ意思と夢を持つ個人や団体が協同で活動する組織である。 そこにはイデオロギーや宗教や人種や国境さえも越える力がある。 そして、今年は…日本では政治家が情けない政争に明け暮れ、マスコミはそのお追従記事に我を忘れていらっしゃるようで、多くの日本人は認識が無いのだが…今年は…国連が定めた「国際協同組合年」だ。 なにそれ?と思う方が多いだろう。 ボクはこう解釈している。あくまでも個人の認識だが…。 今、資本主義も社会主義も崩壊の危機である。 ヨーロッパのユーロも日米の経済もロシア中国も危うい。 資本主義や社会主義に代わる次世代の道が懸命に模索されている。 その現状世界にあって、大いなる可能性を秘めているのが「協同組合」と言う生活経済に道なのだ。 世界中の同意識、同方向、同夢をもつ人々や団体が協同で組織を創って活動して行く。 国境も無い、上下の無い世界が誕生するだろう。 それが国連の掲げた「国際協同組合年」の趣意だと、ボクは勝手に解釈している。 あながち推察は外れてはいないと思うが、まぁ結果はこの駄文を十年後に読む方がいたら、その人が判断してくれるだろう。 ちょっと楽しみ!
悠長な気分を持ち得ない。 この国の新年は「闘春」からの進行こそ相応しい。 昨日、全日本鉄道労働組合総連合会(JR総連)の新春の集いにお招き頂いて来た。 開場は毎年の目黒・雅叙園である。 いつもなら「新春賀詞交歓会」のタイトルが今年は「新春の集い」に 変わっていた。 そこにJR総連の深い闘魂の意思を感じた。 来賓各位も衆参両院議員が60名ほど、更に各労組代表、冤罪事件支援団体、憲法9条各連絡会、作家、ジャーナリスト、弁護士、市民ネットワーク等々開場は熱気が溢れ、まさに「闘春」の開幕であった。 なかでも挨拶に登壇された新党大地・真民主の鈴木宗男さんの薫陶は 各人の血を沸かせ、肉を躍らせる言霊に溢れ返っていた。 他の方々の訓話にも垣間見えたが、今年は全てに於いて混沌、混迷、打破、改革の言葉が踊る。 ボクは更に一歩、市民革命の好機と捉えている。 今、全ての仕組みを壊し、組み直す時期である。 それは取りも直さず、この国の次の世代への幸せの継承の為にほかならない。 そこで提案がある。 「闘春」に参加する人々はニヒリストになって欲しいのだ。 団体など作らなくて良い。 まずは一人一人がニヒルに生きる事だ。 ニヒリスト・・・すぐグーグルで検索したところで、まずは「虚無主義者」・・・受け狙いでは「ゴルゴ13」あたりに行き着くだろう。 ボクの言うニヒリストはツルゲーネフが言っている行動者のことだ。 彼は言う、既成の体制や価値観を否定する者がニヒリストだと。 それは反抗と否定に希望を見出す人々のことだ。 今年はこの国に、ニヒリストがあふれ出ることを期待したいのだ。 自分の国は自分で作り変えようじゃないか。 だって、ボクたちは地球上で、やっぱり「ここ」がいいから。
日本各地に伝承されている「風土記」は、どれもその大切さをボクたちに語りかけている。 日本各地、町、村、集落には独自の風土がある、それを故郷と呼ぶのだろう。 東日本大震災の被災各地も新たな年を迎えた。 ボクもまた、彼の地の人々に、どのようなお手伝いが出来るのかを考える。 昨年は、とにかくお手伝いを…の思いの余り「被災地に笑顔を実行委員会」を神社本庁、産経新聞社他多くの団体、法人、個人の方々のご賛同で立ち上げた。 岩手県陸前高田、気仙郡住田町でのボランティア活動。 宮城県石巻、仙台での復興復旧シンポジューム参加。 そして、ボクとしては多くの課題を繰り越して迎えた新年である。 今年はまず今月、福島原発災害で県外非難を余儀なくされている福島県双葉町の方々を東京にお招きし、ひと時の笑顔になっていただける 楽しいボランティア活動を予定している。 被災地の皆様に寄り添い、共に生きるのはこれからである。 今年は出来る限りの力を捧げたい。 その時、ボクのテーマとして「風土」を大切なキーワードにしようと考えている。 その地、彼の地で全て風も土も水も違う。 人間だけが高台に移り住めば良い…なんて経済感覚では何も解決しない。 故郷の全ての「生きとし生けるもの」の存在をボクたち人間が忘れてはいけない。 復興・復旧は長く、人の記憶は短い。 毎日毎日、被災地に寄りそう心を更新していきたい。 「がんばっぺし!」
昨年は余りにも衝撃的な出来事が続き、とてもここで言葉遊びする気分になれませんでした。 今年はこの祖国にとって、国命を左右する一年になります。 同時代、同危機を生きるものとして、その記録をここに残す事にしました。 読んで頂いた方は、どうぞメールにて異論・同論をお聞かせくださいね。 さて新年、最初の読書は迷うことなくレイチェル・カーソン著「沈黙の春」です。 実はこの作品の存在は20年ほど前から知っていましたが、読む気にはなれずにいました。 多くの作家もこの本を引用して作品を書いています。 五木寛之さんの最新作「下山の思想」も多分に影響を受けています。 海洋生物学者であるレイチェル・カーソンさんのこの作品は、実は40数年前に初版が発行され、ボクが手にしている新潮文庫は、驚く無かれ72刷版です。 日本で一番多く再版されている作品なんですね。 なぜ今、「沈黙の春」なのか? これを読めば、この未曾有の大災害に直面しているボクたち日本人が どうやって命を繋ぎ、どう心を結び合って生きてゆくのかの手助けになります。 また「経済成長なくして、国民の豊かさはなし」 などと20年間も喧伝し、国民を誤った道に引きずり込んだ政治家、御用経済学者、御用役人たちのイデオロギー・コントロールの手口も見抜けるでしょう。 資本主義も社会主義も、今年の世界はその炎を消して行くでしょう。 その次の道はなんだろう? 「沈黙の春」にボクは微かな灯火を見つけました。
天津神・国津神が敷島の倭の国を創り、ボクたちが居るそうな。 天と地の違いは今、倭の人々の間にある、様々に。 東日本大震災の救援・復興財源がままにならぬ中、 昨日20日、政党交付金がすんなりと出た、320億円。 日本共産党のみ、助成金の受け取りを拒否したが…。 原資は老若男女国民一人当たり250円の税金。 東日本大震災の被災者の皆さんも拠出している。 その国民の血と汗と涙の滲んだ金を持って、政治家の大先生たちが行く先は…。 被災地…いやいや 原発事故現場…いやいや、そうではありませぬ。 銀座・赤坂・神楽坂、夜毎御会合と言う名の団欒・懇親。 さて一方、未だすんなりと義援金の分配も、東京電力からの立ち退き仮払い金も頂けぬ被災者家族たち。 そして、福島第一原発で復旧の為、懸命に格闘している作業員、技術労働者たち。 家族の為、ふるさとの為、国の為、いや世界の為に身を捧げての不眠不休の危険極まりない重労働。 彼等のやすらぎはレトルトをほお張り、使いまわしの寝袋での仮眠。 身体を包む風呂もなし、ましてや酒など一炊の夢。 政治家の大先生方よ! あんたらに恥辱の言葉はありやなしや。 人間としての尊厳の欠片はいかに…。 ひと月前だか、総理は言った。 「死ぬ気でやります」と。 天の人の声だから、そら空しく響き渡るか… 洒落にもならんぞ!
大自然の神の怒りにも似た驚異の前に、 なす統べなく佇む人々。 幾重にも切れ込む東北海岸の浜辺に、 夜毎叫び続ける慟哭の恨み声。 海中に漂うあなた達にも聞こえるだろうか、 生きていて欲しいと願う、幾万の招き音を。 満点の星よりも尚、多き熱火の涙々の滴。 そんな情景を、日夜の震災情報で浮かべつつ、 これ以上、何をか語るべき言葉を持たない。 暗愁の海、春なのに… 今夜は積雪だそうな。 シゲル拝
原子力にど素人の俺が三週間以上前に指摘していることを、やっと政府が認め、汚染水の海洋流出箇所を明らかにした。 いかにも昨日気がつきました…なんて白々しい顔で、官房長官が、保安院が、東電が。 その流失箇所の修復も出来ないという、信じられない技術者達なのだ。 汚染水の流失の穴を紙おむつやおが屑や新聞紙を丸めて塞ごうとしていると聞く。 これが我が国の最先端科学なのか? 国民の命を守る最終手段なのか? 汚染水の流失箇所は、他にも必ずある。 俺には、そこが何処だか簡単に想像できる。 しかし、そこは防ぎようのない箇所なのだから発表はしないだろう。 故に海洋汚染は、今まで人類が経験したことのない恐怖をもって進行するだろう。 大気汚染もしかり、もう自己保身のパフォーマンスやこの事故さえを政局に転換しようとする政治家は排除しなければならない。 ジャーナルもその視点にたって報道して欲しい。 首相官邸や議事堂内で作業服を着ているコスプレ・パフォーマンスは 国民の顰蹙でやっとやめた政治家達、特に現内閣はただちに解散し、 この国に命を捧げる政治家達だけで救国内閣の設立を大至急お願いしたい。 我が国の若者たちの命だけは、救わなければならないのだ。 国民投票で、今すぐやろう。 知事選挙や地方選挙などやってる場合ではないだろう!
原発に素人の俺が当初から想像していた事態が現実になってきた。 これは太平洋戦争以来の我が国の興亡が問われる時なのだ。 その現実感が政府、東電、原子力学者たちにありやなしや・・・。 俺は無いと断じる。 俺はこの愛する祖国の存亡はこの一週間にあると思う。 そして今、早急に祖国の為にやることが二つある。 @ IAEA国際原子力委員会に土下座してでも国際緊急会議を招集してもらい、世界の原子力の英知を結集し、この危機を乗り越える方針を出してもらうのだ。 方針が出たら、それに向け命を張って立ち向かう。 日本の原子力学者・専門家の手に負える事態ではないのだ。 A 国家救済の志願兵を国民から募集する。 今、福島原発の現場にいる人々には、強烈な恐怖の中で懸命な努力をしていただいている。 既に彼等の半数はPTSD…強烈なストレス障害に冒されているはずだ。気持はあっても身体がついていけない状況だろう。 そこで大至急、広く国民から志願者を募るべきだ。 国の存亡の為なら、命を投げ出す人々はたくさんいる。 愛国者の出番である。 右翼の方々にも、ヤクザにも、犯罪者にも、腐った政治家など足元にも及ばない愛国の精神も持った方々は多いのだ。 その方々に政府は特赦・恩赦を与えてお願いするべき時だ。 これは早急に行わないと間に合わない。 勿論、その時俺は真っ先に駆けつける!
遂に亡くなった方々が1万人を超してしまったが、最終的には犠牲者は 5万人を遥かに超えると俺は思う。 甚大な海洋汚染が必ずある、犠牲者が5万人超え等と言うと、 政府や化学者たちは、「根拠がないことを言うな」「論理的でない」と否定する。 そして、放射線被害には、「ただちに、どうのこうのと言う問題ではありません」などと政府の御用専門家に言わせる。 馬鹿を言っちゃいけない。 大地震を前にして、あんた等はなんと言った? 想定外の災害に見舞われたと言ったじゃないか! 政府や化学者に想定外などあっていいのか? 全てを想定するのが、政治であり、化学じゃないのか? 世界で唯一核爆弾の驚異を味わった我が国が、安全が想定できない原子力発電所を、何故作ったのか? 国民の命を犠牲にした私利私欲だけじゃないか! 国民の安全・安心は経済欲や権力欲の亡者の理論にはないのだ。 金儲けを考える輩には、その経済論理に大地震や火山噴火はない。 つまり想定外なのだ。 ことが起こると「まさかそこまで考えませんでした」ってやつだ。 彼等には大自然の現象は、すべて想定外なのだ。 創造力がないのだ つまり、彼等のちっぽけな理論や学問など現実に直面している災害には何の役にも立たないのだ。 今、必要なのは祖国への想い、人への愛なのだ。 それを最大の判断基準に、それぞれの役割を、それぞれが発揮しようではないか。 政治家や科学者に任せるのはよそう。 俺も出来る限りのことをするつもりだ。 俺を生かしてくれたこの国の為に。必ず。
オスカーの主演女優賞を2度に渡り受賞され、そのチャームな美貌と、 自由奔放なるライフスタイルは、世界の男どもを虜にし、女性たちの憧れの存在であったのは今更、評論家面して言うこともない。 彼女は8回の結婚を繰り返し、華麗な男性遍歴も見事であったが、晩年は親友ロック・ハドソンがエイズで亡くなったことが切っ掛けで、全米のエイズ撲滅運動に助力した。 実はこの頃、ボクはエリザベス・テイラー…通称リズとコンタクトしていた。 ボクは当時、劇男・一世風靡セピアの解散公演プロデューサーを任命されていて、ニューヨークでのパフォーマンスを企画していた。 この経緯は今、執筆中の「俺のTV生活45年の自叙伝」に書いてあるので割愛するが、俺はこの企画実現をリズに頼んだのである。 そして結果、リズがNY市長まで動かしてくれて一世風靡セピアのNY公演は大成功した。 あのハーレムにあるロックの聖域アポロシアターまで提供してくれた のだ。日本人としては初めての舞台であった。 そんな当時の思い出など、セピアメンバーだった柳葉敏郎や哀川翔などは覚えているかなぁ。 そんなことより、今朝は震災と放射線騒乱の雑踏からそっと抜け出し、しばし美しかった女優の笑顔をしのぶ素敵なひと時に身を浸しているのである。アデュー!リズ・テイラー。
東電が如何にも今日データーが出たように発表したが、馬鹿言っちゃいけない。 原子力発電所は常時、冷却水放水口の計測は義務付けられている。 東電は爆発直後から計測し、政府にデーターを知らせていた筈だ。 それを政府も保安院も隠蔽していたのだ。 そしてまず野菜と乳牛の汚染から発表した。 一緒に海産物まで発表するのが怖かったのだろうね。 そして昨日あたりから、官房長官の記者会見で海洋汚染の質問が出始めた。(これも遅きに失するが…) 更に政府がとんでもないのは、海洋汚染の原因を雨や川から流れ込んだと、東京ガスに言わせている。 ふざけるな、馬鹿も休み休み言え。毎回の馬鹿は能がなさ過ぎる。 この海洋汚染は、俺が17日に指摘したように、冷却の為の放水の海水が瓦礫などに当たり、そこから放射性物質が溶け込み、それが海に垂れ流されているからだ。 かと言って冷却放水を止める訳にはいかない。 しかし、放水すればするほど海は汚染され続ける。 俺の直感では、もう既に東京湾から相模湾辺りまで汚染はあるだろう。 当然、セシウム137は30年間も半減しないで生物の体内に蓄積されるから、魚介類の汚染は、とんでもない現実になるだろう。 それが政府は怖いのだ。 そこで御用学者や腰ぎんちゃく専門家を政府参与などに起用し安全性を強調させている。 NHKがこの御用報道を率先して放送しているのが腹立たしい。 しかし、国民はこんな政府の発表など信じてない。 支持率が10数%程度の政府と首相を誰が信じるだろうか。 今、この国に途方もない危機がきた。 今、この国に必要なのは、命を捨てるリーダーシップなのだ。 この未曾有の危機をまだ政局にしようとしている似非リーダーや国会議員などいらない。
ことここに至っては、国民に正確な情報を共有させるべきだ。 この原発事故では、政府の稚拙な報道操作が顕著であった。 まず、各報道機関への専門家と称する学者達派遣は、どれも企業(東電など)のお抱え学者や政府の腰ぎんちゃく学者ばかりであった。 彼等は異口同音に「安全だ」「心配は杞憂である」「マスコミの騒ぎは無用」等々、沈静化の発言ばかりであった。 これは情報の隠蔽どころか、悪質な国家ぐるみのプロパガンダとしか俺には思えない。 報道マスコミ機関も、情報伝達どころか、情報破壊・偽情報分散に貢献しているとしか思えない。 いまだに原子力安全・保安院の情報を後生大事に報道しているテレビ局には、報道マンの矜持が皆無としか思えない。 当該機関は経済産業省のお抱え機関である。 原子力を経済のモノサシでしか見ない輩達の集合体なのだ。 その存在の為に、今回の大事故の引き金になったとさえ後世の歴史は喝破するはずだ。 この状況の中で、絶対にやめて欲しい情報の隠ぺい工作がある。 それは、事故を起こしている各原子炉設備を水で冷却しなければならない現実は分る。 しかし、循環水ではなく海水を持ってしての冷却では、使用した海水の後処理は不可能である。 当然、海水に溶解した放射性物質は海に垂れ流しであろう。 空中に放出拡散している放射性物質ばかりに視点をあて、最も恐ろしい海中への拡散は隠されている。 俺は数日前からこれを危惧しているのだが、自衛隊の空中からの海水散布が始まった現時点でも、これを報道する機関はない。 記者会見でも誰も質問しない。 放射性物質を大量に含んだ海水が日本中の沿岸を汚染する、そんな事態にならないことを、天にお願いしたい。
しかし、今回の大震災にあたり石原東京都知事の「東北大震災は天罰だ!」発言を強烈に支持したい。 この発言にクレームを付ける似非知識人や擬似ジャーナリストの多さに呆れ、久々に我がブログを書く圧倒的なモチベーションが沸きあがってきたのだ。 石原都知事の「天罰」発言は、勿論震災に遇われた方々に対して言った言葉ではないのは論をまたない。 それは現政権並びに与野党の政治家、原理主義的経済人など我欲のかたまりの輩に対しての発言なのだ。 俺は「天罰」どころか「天誅」だと感じている。 リーダーシップの欠片もない輩どもには、ただちに総退陣願いたい。 菅総理にはこの未曾有の大震災指揮は無理だ、いや足手まといですらある。 コスプレしてるような枝野官房長官に原発事故は荷が重過ぎる。 屁のつっかい棒にもならない、種別作業が妥当であろう。 この深刻にして不幸な大震災を期に、日本人のアイデンテティを作り直すムーブメントを起こしたい。 その為の戦いを始めなければならない。 まず、我欲のかたまりの輩たちを、叩き潰すことから始めよう。 俺は俺の出来る方法で、この国の為に命を捧げたいと痛切に思い、このブログを再開することにしたのである。 広く同志を募る。 この国と、未来につなげる子供たちの為に命を賭しての闘いを!
ボクも今年はボクなりに、「地球のいのち・つないで」を自身のテーマにささやかな運動をしています。 来月は「地球のいのち・つないで」をグランドテーマにしたヘアーメイクショーを演出すべく準備・稽古中です。 歌も創りました。 国連大学でのセミナーや環境省の方々からのレクチャーを受け、「地球のいのちをつなぐ」ことを、自身のライフワークのひとつにしました。 そうして今日COP10 の開催です、テレビではNHKだけが放送時間を拡大して放送していました。 ボクは自分の仕事柄、放送内容に関しては、大いに異論がありますが、まぁCOP10 の広報としては善しとしておきましょう。 NHKには今日だけではなく、毎日なんらかのCOP10 ニュースを放送してくれることを望みます。 なにしろ今日から3週間、世界200に近い国と地域の方々が名古屋に集い会議し、世界中にニュースとして伝えられるのです。 それなのに、ボクは今、怒り狂っています。 それは夜の民放テレビ各局の番組です。 地球環境をいかに守るか、弱いいきものたちの命をどう救うかを世界中が考えようとしているこの日に、なんなんだ、民放の番組は! しかも、日本はこの会議の議長国です。 世界中が日本の手腕に期待し注目しています。 その時に、相変わらず馬鹿なお笑いタレントをかき集め、飽食極まりない食い物番組の大行進オンパレード。 今夜は発展途上国の人々も沢山、日本のテレビを観ています。 テレビ局の経営者たち、広告代理店、スポンサー企業は、本当にまともな神経を持っているのだろうか? それを言論・放送の自由と言うなら民主主義など消えたほうがよい。 一党独裁の社会主義のほうが、ましに思えるのはボクだけだろうか? この国の大人は、真剣に考えようよ。 今、この国に必要なのは個人の金や権力じゃない、みんなの子ども達、孫達、ひ孫たち、百年、二百年先の子ども達が健康に暮らせる自然の世界なんです。 もうこの国は改革の時ではない。 革命的変化が必要だと思いませんか!
ボクは彼が自殺したとは今も思ってもいないが、世間はすでに終わった事件として人心には留まってはいないでしょう。 今年の初め、マーク・ゲラゴス弁護士との金銭契約も切れ、結局彼は何も実績を残さないまま手を引いてしまいました。 金の切れ目が縁の切れ目アメリカ人は、はっきりしています。 ビジネスライクは結構だが、三浦和義さんの遺品…服やアクセサリーなど等、何一つ返還されていないのです。 帰ってきたのは遺骨だけです。 ロス市警が主張するように、三浦さんが自殺なら、なぜいまだに遺品が返還されないのか? 返還できない重要な理由があるのではないのか? このロス市警の不自然な行動に、なぜ日本政府…当地の領事館が動かないのか? 日本人が不慮の死をとげたのに、司法当局の検察も警察も動きません。 三浦和義さんは日本の最高裁判所で無罪判決なんです。 ボクは日米間の司法取引があったと、当時から発言したり、論文を書いていますが、その思いは今も変わりません。 10月11日は盟友の不条理記念日。 ボクはこの日を命が尽きるまで忘れません。
…と考えたのは、弱腰の日本政府だけで、中国はこれに乗じて国境問題にまで踏み込んでくるのは、自明の理です。 なのに、数日前の政府要人の言葉はどうだったか。 今回の筋書きを作ったであろう仙石官房長官は「検察が法規にのっとり粛々と進めている」と発言した。 外務省の報道官は「法規にのっとり粛々と進めている」と言った。 前原外務大臣は「法規にのっとり粛々と進めている」とおっしゃった。 そして我が国のトップ、菅直人首相は「法規にのっとり粛々と進めている」とのたもうた。 おいおい、皆さん粛々かい? この言葉が余程好きだと見えますね。 前政権の自民党政府の人々も、この粛々が好きだったけれど。 民主党の要人の皆様、「粛々」と言っていれば政治家の仕事をしていると勘違いしていませんか? はっきり言えば、貴方たちの言葉には言霊がありません。 言霊のない言葉は百回しゃべっても、聞く人の心には入りません。 誰が官房長官や外務大臣や総理大臣の発言原稿を書いたか知りませんが、きっと一人の人間が書いたのでしょう。 その人に言いたい。 「粛々」の意味を知りませんね? この言葉は歴史が好きな人、儒学をかじった人なら誰でも知っています。 江戸後期の儒学者・頼山陽の詩の冒頭の言葉です。 「鞭声 粛々 夜 河を渡る」 これは川中島の決戦における、武田軍と上杉軍の壮絶な闘いの中の静寂な一瞬を詠ったものです。 馬に打つ鞭の音が敵に聞こえないように軍隊が河を渡っているのです。 敵に分らないように静かに静かに…これが粛々です。 つまり官房長官も外務大臣も首相も、中国に内緒で粛々と進めていたんですね。 大体、粛々はもともと中国語だし・・・ これじゃ、中国にバカにされるのは当たり前でしょう。 この程度の方々が舵をとるこの国は、いったい何処へ漂流して行くのだろうか。 ため息しか出てきません。
歴史的異常さの猛暑に反比例するかのように、この国の政治の肌寒さはなんなのだろう。 マスコミで語る政治家・評論家・自称?知識人たちの言葉で、すごく気に掛かることがある。 それは横文字の多用さである。 大事な部分になると、訳の分らない横文字をさらっとお使いになるのだ。 それで、マスコミ人も何となく納得顔で済ましてします。 その代表的な言葉が、政治家もマスコミも大好きな「マニフェスト」だろう。 なんで政策の大事な言葉に、横文字を使うのか? 「マニフェスト」を政策公約とでも無理に訳しているのだろうが、この言葉は何語? 英語なら「manifestion」であり、「manifest」なら形容詞だから「あきらかな」と言った意味しかない。 「manifesto」という名詞の単語もあるが、これはフランス語だ。 まさか日本政治の根幹に欧州の農業国のフランス語は使わないでしょう。 余談ですが、みんなの党のお好きな「アジェンダ」に到っては「お祈り」なんて意味にもとれるのです、お気の毒に。 「マニフェスト」みんなが分ったような顔をしているこの言語感覚が危険なんです。 主に英語の多用ですが、ボクはこれはアメリカの陰謀だと考えています。 「happy slave」…訳せば「幸せな奴隷}です。 支配されている側が、支配されていると感じさせない、最も高度な支配。 究極の支配を「幸せな奴隷」と言います。 戦後65年、アメリカは将に日本国を「幸せな奴隷」として支配してきたのです。 アメリカと日本の関係は将にこれなんです。 ボクたちはアメリカの幸せな奴隷になっているのです。 日常会話の英語の氾濫は、アメリカの戦略の一環だと、ボクは思っています。 でなけりゃ、戦後の文部省が日本語教育を減らし、英語教育を必須科目にすると言う、不自然な方針を出すはずがありません。 今こそ、皆がアメリカと日本の関係を理解した上で、政治家や日常の先導者を選らばなければなりません。 大事なことは、まず日本語で語るべきです。
テレビではNHKだけが、全国戦没者追悼式を生中継していたが、民放は相変わらず愚にもつかない番組の垂れ流しである。 心ある視聴者は、そんな番組を支えているスポンサーの商品を買わないのに。 朝日新聞などはこの終戦の日を一面で扱ってはいない。 この国のマスメディアとはなんなのだろう? ジャーナルの一欠けらもないのだろうか。 ボクはいつものように、正午に自宅で独り黙祷で、310万人の戦没者の方々に哀悼と感謝を捧げた。 この人々のお陰で今日のボクの生活があるのだ。 310万人の皆様にボクは生かされているのです。 それをどうしてこの国のリーダーたちは分らないのだろう。 戦没者の皆様の死を無視するのだろう。 無視ならまだ良い。 民主党のように「閣僚は靖国神社参拝しません」などと、わざわざ誰の顔色を伺って発信しているのか? 政府としての発信なら憲法違反の疑いもある馬鹿げた行為だ。 ボクは今年の春、靖国神社本殿の正式参拝をさせていただいたことがきっかけで、関東とその近県の護国神社の参拝をしている。 各県の護国神社は戦争に命を捧げて散った人々を英霊として、おまつりしている。 その護国神社めぐりで気付いたことは、日本人は余りにも310万人の命を無視しすぎていると感じたのだ。 なぜなら普段、護国神社を参拝する人が殆どいない。 どこも閑散としている。 先週は埼玉県の護国神社へ行ったが、ボクがお参りしていた30分ほどの間、全く人が来なかった。 大都会大宮市の真ん中にあるのに、そんなことでいいのだろうか。 戦争とは何だったのか…もっと真剣に考えたい。 護国神社の英霊たちを悲しませてはならないのだ。 それが民主党の能天気な馬鹿げた判断である。 ボクも民主党なら少しは変化が…とも思ったがそれが幻想であることが最近はっきりしてきた。 くだらない権力を持った奴の行動はみな同じだ。 弱者の悲しみや切なさが見えなくなるらしい。 大体政府は最近、祝日休日ばかりやたら作っているが、終戦の日はなぜ休日にしないのか? この日こそ、国民の最大の休日にするべきだとボクは思う。 「終戦の日」などとぬるいことを言わないで、はっきりと「敗戦記念日」とするべきだ。 勿論、祝日ではなく「国民の悲日」である。 これを国民こぞって世界に提示してこそ、戦争責任の重荷を日本の若者達が負わないで済むのだ。 それを勇気をもってする事こそ、政治であり大人としての戦争責任の取りかたなのである。
昨夏から学んでいる神道の哲学を、この眼と心で確かめる機会を神社本庁の皆様に頂きました。 そして神社本庁が主催する伝統文化セミナーの一員として、熊野三山…熊野那智大社の火祭り拝観、そして熊野本宮大社と熊野速玉大社への正式参拝をしてまいりました。 更に神武天皇が登ったと言う神倉神社への巌を這い上がり、ご神体「ごとひき磐」の迫力に圧倒されもしました。 将にボクの穢れた心根を洗われた旅でしたが、もっと嬉しいことに出会えました。 それは那智大社の扇祭り(通称・火祭り)に参加していた神職さんと地元の大勢の男達です。 感動的とも言える、紅蓮の炎と燃え盛る50kgの大松明を抱えて、階段を駆け上がり下る者たち、数十キロの扇神輿を担いで那智の大瀧へと御進行する者たち・・・ 特にこの中で、ボクは参加している多くの若者たちの真摯な眼差しと清清しいまでの動きに感動したのです。 都会にいると、やれ草食系だの軟弱派だのとマスコミに揶揄されている若者達・・・ しかし、ここの若き男どもは、将に日本男子の心意気溢れる奴ばかりでした。 日本男子は絶滅危惧種じゃねえ・・・まだまだいっぱいいることが嬉しかったのです。 大自然の中で生き生きと躍動する彼等なら、ボク達の急務である生物の多様性を守る大儀が進められます。 それが確認できたことが嬉しかったのです。 熊野三山詣では、神々から多大なお力をいただき、更に地元の人々からもいただきました。 ありがとうございました。 この頂いたお力で、この国の為、ふるさとの為、弱い生き物達を守る為に全力を捧げる決心がつきました。
帰宅すると一通の手紙が・・・。 差出人は見覚えのある、綺麗な細字で林眞須美とある。 そんな馬鹿な・・・彼女は去年の6月に和歌山毒カレー事件で死刑が確定してしまった。 彼女がいる大阪拘置所は死刑囚に対しては外部交通が禁止、つまり手紙の発・受信はご法度である。 面会も弁護士と家族以外は許されない。 その眞須美さんからの手紙である。 急いで封を切ると、中から出てきたのは雑誌記事のコピーが2枚だけ。 彼女の文面は入っていない。 何かの暗号か、冗談かと矯めつ眇めつ眺め尽くしたが何も見つからない。 送られててきた雑誌記事は、ボクの友人でもあるジャーナリストのKさんが書いた、毒カレー事件の冤罪性に関しての論文である。 この文章は以前にボクも読んでいる。 ますます不思議でKさんに電話した。 そして分った。 大阪拘置所は今、改築していて7月に眞須美さんも独居房が移動になる。そこで私物の整理を通達されたのだ。 そしていつも独居房で握りしめていた、この眞須美さんの無実を訴える論文を捨てきれず、千載一隅の機会に外部発信を許されボクに送ったのだった。 でも文字のひとつも書くことは許されなかったのだ。 彼女は藁にもすがる気持だったのだろう。 でもボクは確かに彼女の気持をしっかり受け止めた。 林眞須美さんの再審請求は、安田弁護士さん達が準備中である。 支援の輪も大きく膨らんでいる。 動機も物的証拠も無い人間を死刑にしては、絶対にいけないのだ。
本来ならボクはまず出席不可能な会なのである。 なぜなら、ボクはこの学校を卒業していない、退学になり学籍は抹消なのだから。 しかし二年前、晴天の霹靂のように、シャガールの絵のように、突然ボクは卒業該当者になってしまったのだ。 このことは書くと長くなるので、暇な方はこの「いちご悪書」の二年前頃を見ていただければ分ります。 まぁそんなこんなで昨日、上智大学マンドリンクラブの同窓会に参加したのだ。 40数年ぶりの友たちの面影を実像に結ぶのは、非常に困難であったが、時が進むにつれ、暖かな想いがボクの胸を満たし始めた。 あの声、この笑顔、紛れも無い心を許せる友がいた。 ボクはこのクラブでパーカッション担当、主にコンガを叩いていたのである。 「お前のコンガはリズム感が最高だったよ」 お世辞にしろ、自分が忘れていた自分の姿を友に教えられる楽しさ。 自分の知らない自分を様々に語ってくれる友たち。 金や地位や権力ではない、人間の結びつきの素晴らしさを腹いっぱいに満たした一日だった。 嬉しかった。 次はボクが所属していた文学部ドイツ文学科の同窓会にも招かれた。 上智大学始まって以来の劣等生と言われたボクが胸を張って出席するつもりだ。 人生って面白い、長く生きているって捨てたもんじゃない。 とにかく素晴らしき上智大学の友たち、大好きだよ。
ボクが前回書いた、この事件に関する問題点を追求する報道が今も、ないことに愕然とし暗澹たる思いがせつない。 動物の命より人間の経済至上主義優先がそれほど大事なのか? 健康な牛や豚にワクチンを投与した上で殺処分する不自然さを、なぜマスコミは追及しないのか? 農水大臣も県知事もワクチン投与の牛や豚をなぜ自ら食わないのか? 食っても人体に何の害もないものを、食肉にしたら国際市場でのブランドランクが下がるからだけの理由ではないか! 人間の利益が、大切な動物たちの命を奪うことに、ボクは抗議することをやめない。 しかし、今回はこれがテーマではない。 こちらの問題も不自然の極みである。 口蹄疫でこれほど大騒ぎしているマスコミが、5月27日に厚生労働省が発表した2009年に発症したエイズ患者数が過去最多になったニュースをほとんど報道していない。 新たなエイズ患者は431人、HIVウイルス感染者数は1021人。 ボクはこの数字は少なすぎると思う。 これは氷山の一角に過ぎない。 なぜならこの年の保健所などでの検査件数は前年よりも2万7千件も減少しているのだ。 どういうことか、はっきり言えばエイズウイルスの蔓延は既に防ぎようが無いところまで来ているのだ。 厚生労働省はお手上げなのだ。 民主党などは目先の問題に大童でエイズ問題など眼中にない。 また民間レベルのエイズ撲滅キャンペーンなども尻すぼみ状態である。 ボクが20年ほど前、一世風靡セピアの団員達を連れてニューヨークで行ったエイズチャリティパフォーマンスの時も、日本のマスコミの関心は薄かったが、現在も同じような状況だ。 NYでのボクが書いたショー台本のテーマは「エイズは人間から愛を奪い去る悪魔」は今も同じである。 エイズに関する日本人の関心は薄すぎる。 口蹄疫よりも100倍も恐ろしい事柄なのに、あまりにも関心が無さ過ぎる。 今、日本の繁華街はエイズウイルス塗れになっている現実を直視するべきなのだ。 どすしたら若者たちにボクの危機感が伝わるのだろうか。
罪の無い牛や豚の命がゴミ屑のように葬られている映像に接するのは辛い。 この事件では報道各社はバカの一つ覚えのように、同じ視点での報道に大童状態である。 テレビも新聞も週刊誌も、この国の報道に携わる方々には、異論の持ち合わせがないのだろうか? 視点を変えると言う基本を持たないのだろうか? 今日あたりは政府も当該自治体の宮崎県も、対策の遅れの責任はないだの、非常事態宣言だの、自分たちの保身に躍起になっているとしかボクには思えないのだ。 そのまんま東知事などは「寝ずに一生懸命やってるんですよ!」 なんて報道陣に興奮して怒鳴っていたが、ちょっと待った! 非常事態宣言を出して、家畜の全頭処分なんて方向に行く気ではないだろうね。 ボクがこの事件で最初から不自然に思っていることがあるんです。 政府も自治体も報道各社もなぜか、口を閉じているのだが、なぜワクチンを投与しないのか・・・と言うことです。 口蹄疫はワクチンで感染は簡単に防げる筈です。 人間のインフルエンザの時はワクチンであれほど大騒ぎしたのに、牛や豚では誰もワクチンのことを言い出さない。 実は彼等にはワクチンを投与したくない事情があるんです。 つまりワクチンを投与した家畜は肉のランクが下がるんです。 例えば日本では牛肉のランクは上中下の3ランクに分類されます。 宮崎県の牛は上ランクが多いのです。 これにワクチンを投与すると中ランクになってしまいます。 つまり金がらみなのです。 今、この国に蔓延している経済至上主義、この国を駄目にした金が全ての判断基準なのです。 だから投与しないのです。 例え宮崎県の家畜を皆殺しにしても、人間の利益を優先するつもりなのです。 牛や豚たちの命を頂いて生きている人間達が、命を頂いている感謝の心を忘れ、彼等を無駄死にさせていいものでしょうか? それを誰も不自然に思わないのでしょうか? この国は今、進むべき方向を完全に見失っています。 この事件だけではありませんが、ボクたち大人は、子ども達に何をどのように伝えたらいいのでしょうか? 最近、ボクがしばしば立ち止まって考えてしまうことです。
日本のマスコミは無関心だが、アメリカではますますヒートアップしているのだ。 トヨタ批判が膨張し、単独詐欺事件として様々な人々が集結し、広域集団訴訟に発展している。 この事件の原告弁護人代表がマーク・ゲラゴス弁護士だと言う。 彼はアメリカでは名立たるスター弁護士である。 いや、ボクも知らない仲ではない。 絶対に忘れることの無い2年前、米国ロスアンジェルス警察の留置所内部で不自然な死をとげた盟友・三浦和義さんの不可解な事件の担当弁護士であったのだ。 ゲラゴス氏の手元には、あの事件に対するボクなりの推理論文も英訳して渡っている。 ゲラゴスは事件当初からあの事件は自殺ではなく、他殺だと認定していた。 その彼が今年になって手のひらを返すように事件から外れることを一方的に通告してきた。 ボクは彼に何が起きたのかと半信半疑であったが、今になって合点が行く。 ボクは彼と権力に何らかの司法取引があったのだと思う。 トヨタ問題と三浦和義さん問題は見えない糸で結ばれている、その糸がボクには見える。 いや、それだけではない。 クロマグロ問題も然り、全てが不自然な連鎖をしているのだ。 今、世界で起きているのはトヨタバッシング等と言う規模ではない。 これは日本バッシング、一気呵成の日本つぶしなのだ。 民主党政権になって、日を追う毎の政治の大混乱、このチャンスを世界が見逃す訳が無い。 現代の戦争は武器など使用しなくても国を消滅させることが出来るのである。 今、戦後最大の日本のクライシスだとボクは感じている。 だからこそ、アメリカの広域集団訴訟が気がかりなのだが・・・。
なぜ日本人の大好きなマグロを…このやろう! いや、そうじゃありません。 ボクが異議を唱えるのは、このドーハの審議に対する我が国のマスコミの報道の視点にです。 テレビも新聞も全ての報道が日本バッシングに対しての反論に始終しているのです。 農林水産大臣ですらインタビューにうろたえ、クロマグロが禁輸されたらえらいこっちゃと慌てふためいている情けなさである。 禁輸提案国のモナコ代表はこのままマグロ漁を放置しておけば、3年後に地中海のクロマグロは絶滅すると問題提起をしています。 ボクはその通りだと思います。 今、日本が地中海でやっている(他国にやらせている)クロマグロ漁は酷すぎます。 実はこの部分がなぜか日本では報道しないのですが、地中海のクロマグロ漁は成魚ではなく、稚魚を網で獲っているのです。 この稚魚を地中海沿岸諸国の海に牧場を作り、餌をめちゃくちゃに食わせて、日本人が大好きだと言う全身大トロの油デブマグロに育てているのです。 これは養殖ではなく、畜養と言います。 この殆どが日本に輸出されています。 畜養のお陰で日本人は回転寿司でクロマグロが食えるのですね。 でもね、クロマグロの稚魚を獲る時は巨大な網でクロマグロだけ獲れる訳ではありません。 他の多くの魚の稚魚も獲れてしまいます。こっちのほうが多いのです。 そしてクロマグロだけ大切に選別し、他の多くの稚魚は殺されて捨てられます。 この為に地中海は今、クロマグロだけでなく多くの魚が絶滅の危機なんです。 地中海の生態系が破壊されているんです。 いや、日本人が破壊しているのです。 ボクは地中海のクロマグロ取引停止に大賛成です。 他国に迷惑かけてまでクロマグロなんか食いたくはありません。 ボクはマグロが好きだけど、日本近海にだってビンナガマグロだって、キハダマグロだっているじゃありませんか。 フォアグラみたいに不自然に太らされたマグロをおいしいと言うのはバカなテレビレポーターだけだよね。 絶滅と言えば、日本人は江戸時代まではひとつの動植物さえ絶滅させないで共存した稀有な民族なんです。 それが百数十年後の日本は、世界中から自然破壊で軽蔑される民族に成り下がってしまったのです。 マスコミ人に心があるなら、この視点を報道するべきなのです。 今、この国はどうしてしまったのか? 何処へ漂流してしまうのか? このままではクロマグロと共に、日本人だって絶滅してしまいそうです。 今夜のドーハの審議が日本にとって2回目のドーハの悲劇にならないことを・・・。
強風の為に倒壊した。 ボクはその日たそがれ時に、このニュースに接し「やっぱりか…」と言う想いが心を満たした。 なぜかと言うと3月の初め、ボクは突然鎌倉の八幡様に行かなければと思い、出掛けてきたのである。 それは何十回目かの八幡様詣でであるが、その日ボクは生涯初めて御神木と一緒に写真を撮ったのだ。 その写真にはボクの背後から御神木が真っ直ぐ天に向かって屹立している。まるで高天原への天の橋立である。 この大銀杏は樹齢千年とも言われているが、いにしえの鎌倉幕府3代将軍 源実朝がこの銀杏の木の後ろに隠れていた公卿に暗殺された歴史を持っている。 歴史は巡ってボクの学生時代、この銀杏の大木がある八幡様の境内はボクたち悪がきの遊び場所であった。 ボクの高校は鎌倉学園で、建長寺の中にあり、学校の裏山をよじ登って笹薮の小道を行くと天園と言う素敵な高台があり、そこを南に下ると鶴岡八幡宮なのだ。 あのあたりは自分の庭のようなものだった。 だから当時からボクは八幡様と呼んでいる。 この銀杏の大木は境内でのカンケリの恰好の隠れ場であった。 この大木の下に集合し他校(逗子開成高校)の高校生と集団での大乱闘で機動隊に検挙された思い出もある。 機動隊に包囲されたとき、敵味方の区別なくこの大木の陰に隠れたっけ・・・。 その御神木がたった8メートルの北風で倒れたと発表された。 瞬間、ボクは非常に不自然な感覚に満たされた。 八幡様は本堂の北側の背後に山を背負っている。 だから北風には滅法強いはずだ。 さらに、本堂の階段下にある大銀杏は北風など微風程度にしか受け止めないはずだ。 大銀杏が風に弱いとしたら南側の海から表参道を真っ直ぐに引き裂いてくる南風だけなのだ。 でもあの日は北風だった。 だからボクは北風に倒れたと言う簡単な発表に不自然さを感じた。 ボクはこう推論する。 御神木は自ら倒れたのではないのだろうかと・・・ 笑う奴は笑っても構わない、でもこの世には人間の道理など遥かに超越した自然のメカニズムが存在している。 科学が万能などあり得ないし、人間は万物の霊長などではない。 あの御神木に見詰められて生きてきたボクには、今回の出来事は神の啓示だろうと想う。 ボクの学問である想像工学的には八幡様は武道、闘いの神を祭っている。 その闘いの神が自らの御神木を倒したのは、何らかのメッセージではないだろうか。 例えば不安定な労働者たちに、例えば若者たちに、例えば弱者・敗者たちに戦えとのメッセージではないだろうか。 今、絶望的に衰退しているこの国を活性化させるための闘い。 少なくともボクは八幡様からそんなメッセージ・パワーを頂戴した。 倒壊した大木を蘇生させることより、不自然に倒れた意味を考えたほうが良いのではないだろうか。
式典の裏方で飛び回っていた若い先生たちの自己犠牲の奉仕も見事であった。 この学校の講師である自分が幸せを感じる刹那である。 今年の卒業生は336名。就職率は100%。どうだ!すげーだろ! ・・・と良い気持のまま一夜明け見詰めた新聞。 今日、4月からの高校無償化法案が衆議院文部科学委員会で可決された。16日の本会議でもすんなり通過だろう。 民主党が先の選挙を勝つために掲げたマニフェスト?…の目玉である。(マニフェストに?を付けたのは理由があるが、ここでは長くなるからヤーメタ) 民主党は夏の参議院選挙対策には何が何でも、この法案の成立が命題である。 それも良いだろう。 ボクは高校の無償化に反対ではない、その根拠もないし。 しかし、絶対民主党政府を許せないのは、朝鮮人学校の除外である。 拉致問題が未解決、核武装している、国交が無いなど後付けの理由など理由にならない。 それらの問題の制裁として在日の北朝鮮学生に凶器の眼を向けるのは間違っている。 在日北朝鮮の子供達に何の罪があるというのだろうか。 第一、彼等は望んで在日と呼ばれる存在になったのではない筈だ。 今の政治家が触りたくない深く暗い歴史があるのだ。 これを民族差別と呼ばずに、差別を論ずるべきではない。 いつからボクたち日本人は、これほど心が貧しい民族に成り下がってしまったのだろう。 今、東南アジアの国々の学校では日本語クラスが続々と廃止になっている。 僕たち日本人は嫌われ始めているのだ。 北朝鮮学校の生徒達に日本の大の大人たちが制裁を加えているのだ。 俺たち日本人が美意識として持っていた「武士の情け」はどこへいったのだ。 総理が「友愛の精神」だとか言っていたのはなんだったのだ。 不自然も良いところだ。 夕方になって政府は北朝鮮学校の教育内容を精査して決める…とか 言い出したが、そんな言い草は誰も信じてなんかいない。 こんな時こそ自民党が身体を張って阻止する時なのに、駄目党のおっさん、おばさん先生連中には無理だろうなぁ。 まぁこれでまた日本は世界の人々に軽蔑されるのは間違いないだろうね。
所詮、民主党も自民党も同じ穴のムジナ、国民の生活や苦悩など何処吹く風の連中なのだ。 この茶番のドサクサに官僚たちが権力搾取に蠢いてることも知らず。 例えば厚生労働省は・・・日本中の職場の禁煙化を勧めているのだ。 その為に労働安全衛生法の改正案を準備している。 禁煙を法律で決め付けようとしているのだ。 喫煙者の人権も煙草販売者の生活も無視した暴挙を平然と行おうとしている。 大体、合法的な喫煙を強権発動で封じ込めようとしているのだ。 この禁煙を法制化したら、間違いなく次は禁酒の法制化だろう。 世界保健機構が酒の広告と販売の規制に乗り出そうとしている。 厚生労働省はきっとその尻馬に乗るだろう。 冗談で言っているのではない。 現にイギリスではすでにこの法律が機能し公園や海辺で缶ビールなど飲もうものなら警察にしょっ引かれる。 断っておくがボクは酒も煙草もやらない。 自分のご都合で厚生労働省に難癖をつけているのではない。 民主主義を標榜する先進国は所詮、権力を絶えず増強させなければ統治できないのだ。これが民主主義のリスクかもしれないとボクは感じている。 民主主義はこのように異端の人間を排除する。 最近は喫煙者も少数派になりつつあり、異端者扱いされてきた。 だから排除するのだ。 異端を排除したら、その国の文化は死滅するだろう。 異論を排斥したら、社会の民度は低迷する。 今やこの国は皆で決めたことは正しいのだ。 この国の人民は赤信号も皆で渡れば怖くなくなっている。 この危険な国民体質が多くの冤罪事件をさえ助長している。 だから裁判員裁判は危険なのだ。 そんな国民を作っているのが、権力しか見ていない政治家連中であり、官僚でありその腰巾着と化したジャーナリズムである。 連日行われている国民無視の政治茶番と官僚権力の蠢き・・・ そのプロパガンダと化したマスコミ。 国家や資本家の勝者の論理のみが最優先され、庶民たちの尊厳は踏みにじられている。 この国は大崩落に向けて突き進んでいる。 それを不自然に感じない人は死んだほうが良い。 未来の子供たちの悲惨な生活を見ないで済むから。 不自然に感じる人は闘いを挑め。
これは正確には引退させられたのであり、日本相撲協会理事会の暴挙である。 せっかく貴乃花理事の初参加の理事会でこんな結論をだすとは・・。 結局、貴乃花も裏取引で票を集めての当選と言われてもしかたがない。悪く言えば談合があったのだと思う。 貴乃花を英雄扱いするのは間違いだ。 さて、朝青龍問題であるが、これは相撲協会と横綱審議委員会とマスコミによる明らかな人種差別であり、人権侵害だ。 今回の問題はまだ、朝青龍が殴ったと言う証拠はなにもない。 たかだか酔っ払いたちが悪ふざけした上での怪我じゃ無いのか・・・とボクは思う。 冤罪の可能性だってまだあるのだ。 それは横綱の品格の問題だと、バカなことを後生大事にのたまう似非知識人やマスコミ人も掃いて捨てたいほどいる。 品格?・・今の相撲の何処に品格があるのだ? 懸賞金と称する金を賭けて勝ち負けを争い、勝ったらその金を鷲づかみする相撲取りの何処に品格があるのだ? タニマチと称するスポンサーに纏わり付き金品を頂くだけの「ごっつ あん体質」の何処に品格があるというのだ? 協会の理事達に品格があるか? 相撲の勝負も知らない横綱審議委員のおっさん、おばさんに品格を感じたことがあるだろうか? 相撲が日本の伝統文化だったのは、ワンスアポナタイム昔々のお話である。 相撲は日本の神道に発した武道である。 横綱は八百万の神の一柱であり、だからこそ注連縄を付けているのだ。 その日本の神の座にキリスト教徒やイスラム教徒や仏教徒をつけても平然としている輩たちには分るまい。 国技であった相撲に外国人を入れた時に、相撲道は終焉し国技ではなくなった。 単なる裸の男たちの格闘技である。 民主党政府は直ちに相撲協会の財団法人認可を取り消すべきである。 落ち着いて考えれば、現在の相撲なんてこんなものである。 そこでやんちゃな朝青龍がなにをしたというのか? 朝青龍こそ潰れかかった相撲人気を支え続けた大功労者じゃないのか。彼がいたからこそつまらない相撲が何とか持ちこたえたのだ。 相撲協会こそ彼に感謝し、それなりの恩を返すべきである。 そして理事会と横綱審議委員たちこそ直ちに引退するべきだ。 早くしないと、この愚挙は国際問題にもなりかねない。 どう見ても、今回の決定は人種差別がチラチラ垣間見えるのだ。 モンゴル人は協会内で相当な虐めと差別を受けているのだろう。 今日、この問題で記者会見をした白鵬が涙を流す姿には非常な違和感を感じたのはボクだけではないだろう。 本日のこの不自然な出来事は日本人として大変に恥ずかしいことだと感じたのである。 ボクは前からここでも言い続けてきたが朝青龍が大好きなんだ。
大勢の方々からお叱りを頂き、感謝の念を持って再会いたします。 休んだ訳は簡単で、心に感じた「よしなしごと」を散漫に書き繕う事に嫌気が挿したのです。 バカなアイドルやタレントがブログと称して、てめえが食ったものなどを写真と共に書いている日記もどきと何ら変わらぬ己の姿が恥ずかしくなった訳です。 で、この一年はテーマを明確にして書いてみたいと考えました。 昨年から毎週末、日本中の神社を訪ね歩き、国とは何か?日本人とは何か?ボクとは何か?を見詰めてまいりました。 そして今、ボクに必要な…いや日本人に必要な思考の尺度はこれなんだ!と思い及んだのです。 「それは自然・不自然」と言うモノサシ・・・。 これこそ地球上でも日本人だけが持ち合わせている日本人固有のモノサシであり、感性であり、判断基準なのです。 今、この時代に起きている全ての出来事はこのモノサシで計れば、明確に判断がつきます。 政治、経済、事件、身の回りの雑事など全てに応用できます。 神代の時代から大自然と共に生きてきた日本人だからこそ持つ固有のこの感覚を蘇らせたいのです。 そこでまず、ボクが率先して「自然・不自然」のモノサシで様々な事柄を計ってみます。 題して、ニッポンの「不自然大全集」 その1は・・・ いつも大晦日の夜になると、不自然さに猛烈に腹が立つもの。 NHK紅白歌合戦です。 いや、唄ってる能天気な歌手達には罪はありません。 とんでもない輩たちは、NHKの職員・放送スタッフなのです。 何が不自然かってまず最悪は、毎回番組のエンディングで全歌手が唄う「蛍の光」です。 なんの為にあの場で超不自然な歌を唄うのか? 多分、日常エリート風を吹かせているNHK職員も経営陣も偉そうな番組審議委員のとっつあん方も、あの歌の出所を知らないのです。 「蛍の光」は明治初期に、イングランドの曲に作詞者不肖の詞をつけたものです。 作詞者が軍に加担するのが嫌で、名を隠したの為に作詞者不肖です。 何のために・・・それは北方領土や南方領土拡大の為に続々と若き兵士を送り込む為の軍歌なのです。 一番は国の為に死を賭して出兵する若者達を見送る内容です。 二番、三番と見送る情景が続き、四番の歌詞になると具体的になります。書いてみましょうか・・・。 千島の奥も 沖縄も 八島の内の 守りなり いたらん 国に いさおしく つとめよ わがせ つつがなく と言う、ものすごい軍歌であります。 この「蛍の光」を誰が何の為に大晦日に唄わせているのか、公開質問状でも出して聞きたいものです。 もっとも訳を知っている奴の差し金か、番組では四番は絶対に唄いません。 はやく何とかしないと、今年も卒業式などでも子供達に強制的にこの軍歌を唄わせてしまうことになります。 まぁボクは軍歌が好きだから良いんだけれどね。 更に、NHK関係者のみならず左翼的思想の有識者諸君にも聞きたい。 常日頃、日の丸は日本国国旗にあらずとか言ってらっしゃるが、あの 「紅白歌合戦」と称して紅組・白組に分かれての闘いには疑問を感じないのでしょうか? 紅白こそ、日本人を真っ二つに分断し、血を血で洗った源平両軍の闘いの御旗であったはず。 その悲惨な闘いの象徴である紅白は問題なく、何故に日の丸は問題なのか? この不自然さ、ボクにはさっぱり分らないのであります。
中でも一躍時の人になってしまったのが蓮舫議員である。 本来政治家は核心となる言葉を控えるのが性であるが、蓮舫議員は歯に衣きせぬと言うか、無邪気さというか、まぁ大陸の血も混じってる人だから少々日本人にはないアグレッシブな精神の持ち主ではある。 そんなことを輝く時の人に言うのは失礼かもしれないが、彼女とは昔馴染みなので許してくれるだろう。 蓮舫とは彼女がクラリオンのキャンペーンガールとして水着のピチピチボディを振りまいていた後、俺が担当したテレビ朝日の深夜の生放送「プレステージ」のキャスターに起用したのが最初である。 まだ碌にコメントも言えない女の子であったが、向こうッ気だけは強くて、どんなテーマ、どんなゲストでも物怖じしなかった。 それと甲乙・白黒ははっきりさせるのが好きな子であった。 このキャスターを始めて確か1年位後だったと思う。 蓮舫が所属する川崎エージェンシーの社長から、今後どのように進んだら良いかの相談を受けた。 そこで六本木のクローバーで蓮舫とお茶を飲みながら、彼女の今後について語り合ったことがある。 その時、俺はこう言った。 これからは自分だけの人生テーマを持つこと・・・例えば今後大問題になるであろう食品添加物、あるいは飲料水問題などは女性として良いと思うよ・・・なんてことをアドバイスした。 蓮舫は素直に聞く子で、それ以後キャスターとしてのコメントががらっと変化してきた。 機を見るに敏・・・かなり器用でフットワークは良いのである。 その彼女が結婚し、双子を生んでから子育てに人生テーマをシフトし、議員になって遂には時の人になった。 別に俺がどうこうした訳じゃないが、昔馴染みとしては、なんだか嬉しいのである。 でも若い時から敵を沢山作ってしまう性質の子だったのが少々杞憂かもしれないが心配かな。 それとバサバサ切りまくるのは結構だが、木を見て森を見ず…切り過ぎて心の貧しい国造りの手先だけにはならないで欲しいな。
綜合演出の俺が言うのも手前味噌に聞こえるが、今年も素晴らしいショーだった。 今年のグランドテーマは「リ・ニューアル」 文化やアートをクリエイトすることは、この国の先達の感性や伝統や魂を継承し、そこに新しい感覚をインプットすること・・・ 政治や経済・文化を含め今、この国に必要なのは革命に近いほどの「リ・ニューアル」なのである。 このコンセプトを全校学生が理解して、全員で見事にショーを創り上げたのである。 今回のショーの素晴らしさは、エンターテイメント性もさることながら、ショーを創る過程において、学生達が垣間見せた人間愛とも言える美しさであった。 数百人の学生がそれぞれの役割を分担して行う舞台ショーである。 華やかなモデルもヘアーメークも制作スタッフも観客整理・警備係り も、すべて学生である。 誰だって華やかな役割に付きたいだろう。 しかし、役割の分担と言う大儀の元に、それぞれが自己矛盾を克服し、更に自己犠牲まで発揮してチームワークを維持してくれた学生もいた。 最近の大人社会では死語に近い「自己犠牲の美しい精神」を俺は自分の教え子達に見た。 この喜びは筆舌に尽くし難いものがある。 これこそ国際理容美容専門学校が校是にかかえる「躾」教育の賜物である。 今年の「美翔祭」は数百名の一体感と何ものにも替えがたい崇高な精神である「若者たちの自己犠牲」を見せてもらった。 俺は自分の学生達を誇りに想うと共に、心から尊敬するのである。 みんな!どうもありがとう。
この命の中には知恵や経験や魂など大切なものが詰まっている。 これは地球上のすべての生物に共通した自然の摂理なのだ。 最近、人間だけがこの掟を破り、なんと自分の子供や家族だけに金や地位や権利を継承することだけに汲々とする哀れな奴らがいる。 それも小金を溜め込んだ、企業成金に多い。 そんな晩節を汚すことが無いようにしたいと思っているが、俺は若者たちに何を残し、何を継承していくのかが定まらない。 それを見つけるために、今年から毎週のように神社巡りの小さな旅を続けている。 日本の大きな神社とその周辺には、出雲・大和時代からの長い歴史と 大自然、町並み、人々の生活が微かに残されているからだ。 そのかけらを拾い集め、自分なりの生きた証と目的を確認したい旅なのである。 昨日は千葉県の上総国・一ノ宮の玉前神社へ行って来た。 JR京葉線特急「わかしお」で上総一ノ宮駅で下りると小雨だった。 バスが三台も来たら身動きできないほどの駅前広場、店も駅前食堂と花屋が数軒、おまけに人の姿がほとんどない。 玉前神社へ7分の標識を見ながら町を歩く。 雨だからか歩行者もなく、小さな町並みを見ながら玉前神社に着く。 この神社は上総国の一ノ宮だけあって1200年の歴史があり、大社造りの拝殿も本殿にも大切に守ってきた人々の想いが感じられる。 本殿裏手の神木も見事な歴史の威容を見せている。 この地は縄文・弥生から人々の営みがあったところで、静寂に耳を澄ませると往時の古代人の囁きさえ聞こえるようだ。 玉前神社から雨の中を南へ30分ほど歩くと海へ出た。 駅前から海へのバスは一日に3便しかないのだ。 ここは房総半島の九十九里浜最南端である。 雨の浜は北風が舞い、不規則に潰された波が荒い。 砂浜に傘を差して彼方の沖合いを見詰める。 太古から延々と続くこの大自然の営みの中で、人間はいったい何を見つけたと言うのだろう。 万物の霊長などと大見得を切って、何をしてきたのだろう。 科学・化学万能の時代と胸を張っても、インフルエンザひとつに日本中が右往左往するだけである。 アメリカでは40%以上の母親達が我が子への予防注射を拒否している。副作用が怖いのだ。 日本ではそんな情報もなく、2回摂取だの1回だのと先を争って大騒ぎである。 科学など信じてはいけない。 大切なのは、自分が生きていく上で自然か不自然かを見極める魂なのだ。その物差しを持っているのは日本人だけである。 これも古代人から受け継いだ日本人固有の宝物なのである。 帰りに駅前のひなびた食堂で食べたチラシ寿司がとっても美味しかった。
確かに俺も最近は裁判所通いが楽しみの一つではある。 で、先週は20日に霞ヶ関の東京地方裁判所へ行ってきた。 先月、答弁書すら出さず闘う姿勢を示した被告との2回目の公判だ。 東京地裁では、19日は高相被告、20日は俺、21日は押尾学被告と続いていて笑っちゃうね。 もっとも19日や21日の地裁玄関前は報道陣と傍聴券を求める人々で、朝の新宿駅のような雑踏であったが、俺の20日は玄関前に一人もいないと言う寂しさ。 だからその寂しさを携帯カメラで撮ろうとしたら警備員数名がすっ飛んできて止めろと言う。 「報道陣は良くて、なんで俺はだめなんだ?」 と悪態をつくも無視された。 まぁ同じ裁判でも高相・押尾両名は被告、俺は原告…この違いは精神的に大きいね。 でも麻薬取り締まりは難しい事件だ。 正直言って二人とも、いや酒井法子にしても自分が悪事を働いたとは思っていないだろう。 現に今、麻薬を使っている多くの人間達もそうだろう。 心の中では、酒はどんなに度数が強くても、中毒になっても罰せられず、タバコも同様である。 麻薬と酒類の違いはなんなのか? 大麻と煙草の違いはなんなのか? 知識人を自認するお偉い?方々には、甚だ子供じみた意見に見えるだろうが、庶民レベルとはこういうことなのだ。 サプリメントやドーピング違反とされる薬品類や健康食品だって同じことが言える。 それぞれの径庭は誰が何の基準で決めたのか?が判然としないのだ。 渋谷や新宿の街へ出て、通りすがりの若者に聞いてみればわかる。 麻薬の入手方法など分っている奴のほうが多いくらいだもの。 と言って、俺は麻薬など肯定しているのではない。 現に俺は麻薬どころか酒も煙草もサプリメントすら口にしないのだ。 俺の筋肉はドラッグレスである。 まぁ話が長くなったが、麻薬と人間の付き合い・・・これは簡単な問題ではないのは確かだね。 で、俺の裁判に戻る。 第二回目の今回、法廷は前回と同じ6階の608号法廷、裁判官も前回と同じ眼鏡をかけた柔和な顔の小太り中年さんと書記官は気の強そうなアラサーって感じの女性コンビだ。 相手の被告は答弁書を出してきて和解を申し出てきた。 裁判官は「これで結審の方向でどうですか?」 と聞いてきたが、俺は不服を申し立て、今回も膠着、来月の法廷を取り決めてあっけなく終わりだった。 この日、数時間後に被告の相手より直接連絡があり、更なる和解条件を提出してきた。 でも、俺はそれも却下した。 そして新たな条件を提示して、一週間の答弁猶予を提供した。 多分、これで和解条件は整い、来月の法廷で結審するだろう。 今週はもう一件、少し大きな相手との裁判がある。 このワクワク感はいったいなんなのだ?
長門裕之さんから重態な病であることは伺っていたので、まもなくこの日が来ることは感じていた。 ボクが南田洋子さんと初めてお会いしたのは1970年代、フジテレビの音楽番組ミュージックフェアだった。 長門裕之・南田洋子夫妻が司会進行役でボクは駆け出しの構成作家だった。 三年ほど番組をご一緒したが、南田洋子さんはすばらしい気遣いをされる方で、金の無いボクらスタッフにしばしばご馳走をしてくれた。 六本木の会員制クラブ「TCK CCC]のレストランによく連れていって貰ったのが、昨日のように思い出される。 南田洋子さんは長門裕之さんよりも一歳年上の姉さん女房である。 金のわらじを履いてでも見つけろと、男どもには合言葉もある、一歳年上の女房なのだ。 確かに南田さんは女としての気風が最高だ。 こんなことがあった。 南田さんと京都へ旅番組のロケに行ったときだ。 夜、宿舎の旅館に当時、遊び人の旦那・長門裕之さんが尋ねてきた。 京都の舞妓さんと遊びたいので金を貸して…と言うことだった。 すると南田洋子さんはバッグから分厚い財布を取り出すと、そのままポーンと渡したのである。 さすが姉さん女房だ!とボクは感動したのを思い出すのである。 この旅番組では、南田さんの優しさを実感した強烈な想い出もある。 TBSの全国ネットで始まったこの旅番組のスタートは1990年代。 この頃、ボクはプロデュサーになっていて初回放送のゲストに南田洋子さんを起用し、京都ロケを組んだ。 京都ではテレビ初取材の高級料亭「吉兆」などと話をつけて取材した。テレビの食べ歩き旅のはしりのような注目番組だった。 しかも撮影は当時、最先端のENGカメラを使っての画期的な番組だったのである。 初回のその取材は無事に終わり、東京に戻ってプレビューしてぶっ飛んだ。 すべての画面にノイズという信号が入っていて、とてもオンエアできる作品でなない。 現場ではENGモニターが小さく、技術者がノイズをチェックできなかったのだ。 ボクは南田洋子さんに顛末をお話して、再度京都ロケをやらせていただいた。『吉兆」などにも頭を下げられるだけ下げて了解してもらったのである。 今度は現場でノイズチェックなど充分にやった。 そして帰京して、編集所で腰を抜かした。 なんと今度は音声が入っていなかったのである。 これじゃ放送できない。 もう一度撮影も不可能・・・。なにしろ放送3日前なのだ。 頭を抱えたボクに浮かんだのは、アテレコ・・・。 つまり自分のクチパクに台詞を録音していくのである。 映画などではよくあるが、旅番組の喋りは台本のない、フリートークである。これに台詞をかぶせるのは前代未聞のことである。 ありえないことなのだ。 それをボクは南田洋子さんに土下座しお願いした。 「分った、すぐやろう」 南田洋子さんは嫌な顔ひとつせず、むしろ落ち込んでるボクを励ます言葉さえかけてくれたのである。 こうして今日までボクのテレビ生活40余年の中でも最大のトラブルも、南田洋子さんのお陰で無事放送することが出来たのである。 今、ボクは秋の夜空に旅立っていかれる南田洋子さんに、そっとお声をかけた。 「洋子さん、ありがとうございました・・・」
自殺と言うロス市警の発表であった。 その日の夜から三日ほどテレビや新聞、雑誌マスコミの取材にに追われたが、ボクはキチンと対応し、同じ言葉を繰り返した。 「三浦和義は自殺などしていない。その根拠はこうだ」と・・・。 しかし、いつものようなマスコミの国民への意識誘導記事でなんとなく自殺説で世の中は落ち着き、この大事件は忘れ去られている。 様々な事件は次々と起こるから、仕方のないことではあるが、ボクたち支援グループは決して忘れもしないし、行動を緩めもしない。 ロス市警とはマーク・ゲラゴス弁護士チームが丁々発止の駆け引きの最中である。 一年たってもロス市警が留置場の内部や自殺とする仔細な情報をなんら提出してこないのは、向こうに非がある証拠だろう。 わが国の司法当局が、それをアメリカに請求しないのも、日米間に犯罪捜査に関する密約があるとしか思えない。 そのことはボクはレポートにしてアメリカサイドに提出してある。 日本がアメリカの法体系に合わせる義務など無いはずである。 この国は尊厳も理性もある独立国なのだから。 政権も新しく変わったのだから、ぜひ司法の情報公開を望みたい。 でなければ、最高裁で遂に無罪を勝ち取った男のプライドと無念を晴らせない。 三浦和義さんの一周忌にあたり、ボクは残る人生のライフワークのひとつとして、いつまでも彼の無念を共有する。 この一年前の出来事は、単に一人の男の死ではなく日本の未来を左右する重要な大事件なのである。だからボクは闘う。
その前に先月の後日談であるが、あの訴訟では被告の答弁書に記載されていた和解条件を俺が却下して、次回裁判が10月初旬になったのだが、面白いことに、その当日の夕刻、被告側の弁護士より降伏和解の申し出があり、無駄な闘いは好まないので提訴を取り下げた。 さて先月、俺が更に別に2件の提訴した裁判が東京地方裁判所で行われた。 今度は霞ヶ関の地裁である。 地裁ビルの玄関には報道カメラマン達がスタンバイしていた。 今回の俺の訴訟はニュースになるほどの事件ではないのだがと思っていたら、これは例の「のりぴー」が保釈になる日で保釈金の納付を待っていたのだった。暇な奴らだねー。 この地裁のあるビルは地上19階、地下3階、ここに簡易裁判所、地方裁判所、高等裁判所が入った3庁合同庁舎。 地裁だけでも3フロアーに90室の法廷があり、全部では150法廷あるそうだ。 まず玄関から入るや荷物検査で金属類のチェックがある。パスしてロビーにはいると300名ほどの人が、自分の法廷を探して大騒動である。 無理もない、ここには1日平均1万人の人が来るそうだ。 世界でも有数の裁判所らしいが、まぁそれだけ東京には事件や訴訟が多いのである。 今回、俺が行ったのは608号法廷、其処に入ると18席の傍聴席は満席だった。 正面奥に小柄でおとなしそうな顔をした裁判官、一段下の席には中年の眼鏡をかけた気の強そうな女性の書記官、それに庶務という構成。向かって右側が被告席、左側の原告席には今回も予算節約の為本人訴訟なので俺一人である。 ここで2件の訴訟を続けてやることになっていたが、被告Aは昨日までに全面的降伏和解の申し出があり、俺も同意したので取り下げ。 被告Bは無謀にも全面的戦いを挑んできた。俺の訴状に答弁書すら出さない傍若無人ぶりである。 これは面白い。この日の法廷では埒があかないので、裁判官申し出により、次回法廷は10月中旬となったのであった。 今回の一連の裁判はすべて俺が原告であり、更に弁護士いらずの本人訴訟である。 天国で俺の朋友・三浦和義さんも大喜びしてくれるだろうな。 今月は更にもう一件の訴訟も決まった。 今度の相手は少し大物であるし楽しみだ。 俺はもうほとんど裁判に病み付きである。 俺は作家だから当然これらは文章化して出版する予定である。 編集者がこれを読んでいたら、はやくリーチしたほうがいいよ。 この後も法廷に引きずり出したい奴が数名いるから。 では、次回の裁判報告に、乞うご期待!
環境を招致のテーマにすること自体馬鹿げているのに、それをお祭り騒ぎのように報道したマスコミにも猛省を促したい。 石原都知事の魂胆はミエミエだった。 環境をテーマにすることにより、環境ビジネスでボロ儲けを企む企業と大手広告代理店と放送局と自分の息子親族の金儲けの為でしかなかった。 東京オリンピックで環境がテーマだと・・・とんだお笑いである。 あの猪瀬直樹副知事まで、わざわざ難しい顔をして「オリンピックの16年には東京を走る車の60%はハイブリッドです」だと。 そんなことオリンピックに関係なく政治家ならやることだろうが。 猪瀬も次期都知事の座を狙ってるから石原の犬と化してきたのが面白い。 そんなことはどうでもいい。 東京都民の大部分の庶民が全く望んでいなかった五輪招致に、税金から150億円も使った責任はどうとるのだろうか。 個人の権力を振り回し、こんな暴挙は考えようによっては犯罪に等しいと俺は思う。 石原知事は自分をどんな人間だと考えているのだろう。 彼が思うほど都民は尊敬も畏敬もしていない。 彼も最近巷にゴロゴロしている小金持ちの裸の王様である。 今回、その王様に摺り寄り、オイショとオベンチャラでお愛想を振りまいた一部のアスリート達と芸能人達も同罪である。 お前さんたちが懐に入れた高額なギャラは都民の涙の税金であることを忘れては困る。いったい幾ら貰ったのだ? ボランティアなら少しは許すが、そんな奴はいないだろう。 今回、湯水のように使ってくれた150億円の税金、その使い道の細部まで公表させなければ、都民の気持は治まらない。 石原知事は個人財産を投げ出しても責任を取るべきだ。 それが権力者の運命なのだから。 奢れるものは久しからずである。 もう一つ、今回の東京五輪のコンセプトテーマである「環境ナントカ云々」は多分大手広告代理店が提出した企画書だろうが、どれほどの大金が支払われたのだろう。あんな馬鹿げた浮世離れした企画に。 せめてこの日本が世界にオリンピックの開催を招致したいのなら、そして俺が企画プロデューサーなら、テーマは「地球上からの核廃絶&永久の平和の為に」 開催場所は「広島&長崎」である。それしかありえない。 民主党も政権を執ったのなら、そのくらいは考えるべきだ。 鳩山首相が尻尾振ってコペンハーゲンへ行くべきだは、断じてなかったのである。 その程度の政府じゃこの国は危ういね。
行ったのは初めてではないが、今までは友人や仲間の応援の為に傍聴席にはよく行っていた。 しかし、今回は原告で、しかも弁護士費用がもったいないので本人訴訟である。 東京地方裁判所立川支部401法廷 武蔵野の面影が残る立川の郊外にある新築の裁判所のビルは、冷たい感じはなく温かく俺を迎えてくれたって、それは俺が原告だからだろうね。これが被告だったら氷のようなビルに見えるのだろう。 意外だったのは、セキュリティがゆるく派手なジャケットの俺を咎める人も居らず、身分を明らかにする必要もなかった。 50人は入れそうな法廷には正面奥に裁判官、その前に書記官が座り、向かって左側に原告席、右側に被告席がある。 まず裁判官より俺への本人確認があり、被告の答弁書を開示し、提示された和解条件を承諾するや否やの質問があった。 俺は即座に和解提案を拒否した。 で、今回の審理は終了、次回審理日時を決定すると言う、実にスピーディな裁判であった。 本人訴訟の裁判は面白いとは、我が朋友である三浦和義さんからしばしば聞かされていた。 彼はロス疑惑の件では、本人訴訟で連戦連勝だった。 「弁護士いらず」なんて本まで出版している。 確かに、こりゃ面白い。 実はこれに味をしめて、今月はあと2件も俺が提訴した裁判があるのだ。 勿論すべて俺が原告の本人訴訟である。 そして、今後も提訴したい輩が複数いて、準備に入っている。 心当たりがある方は首を洗って待っていてくれ。 いやぁー、本人訴訟の裁判は面白い。 すっかり病みつきになってしまったよ。
今週はテレビも新聞・雑誌も同じような評論屋さんや自称キャスター(俺は彼らをキャスターとは思っていない)たちが、同じような話で時間を浪費している。 今だけは民主党への期待感で皆さん互助会のように話を合わせているが、なに、その内悪口を言い始めるに違いな。 今回、政権交代が国民の目的ではないのだ。 民主党政権になっても世の中、変わりはしない。 政治家が替わっても、既にこの国では集団の最小単位である、家庭や地域、職場・学校の生活・環境が破綻・崩壊しているのだ。 政権交代しても国政レベルではもう、どうしようもないところまできてしまっている。 しかも民主党になっても、申し訳ないが政治家たちの志やレベルは自民党と変わりはしない。 ますます独裁政治色が強まるだろう。 今、俺たち国民がすべきこと・・・それは国政にたずさわる政治家の質を根本から変えることだ。 政治家を職業ではなく使命として志す人々にチェンジしなければいけない。 テレビのバカな番組で顔を売るような輩はもっての他である。 だいたい選挙演説で「お願いします」だの「助けてください」だの土下座までした奴等は国政に携わる資格などない。 本来、政治家とは有権者が土下座しお願いしてなっていただくものなのだ。 「私たちの生活のために、どうぞ政治家になってください。お願いします」とこちらから願う存在が政治家なのだ。 そんな政治家が民主党や自民党にいるのだろうか? その政治家の使命を最も具現化しなければならない存在が、共産党であり、社民党であり、公明党だと思うのだが、彼らはそんな哲学すら持ち合わせてはいない。 我々、国民が政権交代の次にやることは、政治家の交代である。 自民党をぶっ潰した力で、今の政治家達をぶっつぶす事である。 その策を一つ提案したいが、長くなったので次回にします。 乞う!ご期待って…誰も期待してねーか・・・。
革命記念日にしなければいけない。 この好機を逸しては絶対にいけないのだ。 今回の衆議院議員選挙は単に保革が逆転し、民主党政権の樹立が国民の目的ではない。 そんなことは、今の自民党員の堕落振りをみれば当然で、国の明日を考える政治家など皆無なのだから。 しかし、830を政権交代だけの記念日で浮かれてはいけない。 戦後、初めてと言っていい大改革を大革命へのスタートにしよう。 自民の一党独裁とも言える悪癖、悪政はこの国の社会すべてを汚染してしまった。 各企業のトップを見れば明白である。 殆どがトップの独裁ではないか。 特に一代にして功なり名を遂げたなんて成金の輩が最悪である。 貯えた金力や権力は、自分の力量のなせる業の如く錯覚している。 社会は本来、すべてが平等に出来ている。 独りに金力や権力が集中したら、そいつの足元で大勢の人々が辛い思いをし、泣いているのだ。 企業の独裁者にはそれが分っていない。 更に金力や権力はまっとうな方法では集まらない。 殆どが公金横領や詐欺を会社ぐるみでやっているのだ。 今こそ、これを許してはいけない。 雇用や福祉の破壊なども、国だけの問題ではない。 もっと末端の企業レベルでのとんでもない格差の創出こそ問題なのだ。 830 この日から、一人一人が内部告発、外部告発をして悪辣な経営者を叩きのめそうではないか? 俺にもどうしても許せない悪の権現のような経営者がいる。 830 この日こそ、国家の政体を根本的に改革し、一人一人の社会生活に重大な変革をもたらそうではありませんか。 庶民の革命まで、あと一週間である。 善良な国民は総決起せよ!
すぐさま1975年に新伍さんを司会役に起用してテレビ東京(当時は東京12チャンネル)で作った番組「独占・男の時間」のプロデューサー 彦坂さんに電話したが、なんと「彦さん」まで入院中で驚いた。 山城さんが体調を崩し施設で孤独な生活をしているのは知っていたし、面会にも行きたかったが、なにしろあのカッコマンの新伍さん、 惨めに衰えた姿は見せたくなかったのだろう。 いつも体よく断られていたのである。 でも俺は新伍さんの死が近いことは、その言葉で感づいていた。 彼は最後は再び正義の味方で色男の白馬童子でいたかったのだ。 だからそっとしておいた。 新吾さんとの付き合いは、京都の撮影所を食うや食わずで上京してきた75年ごろ、俺の企画の「独占・男の時間」の司会進行役に抜擢した時からである。 この番組は当時当該放送局では珍しいほどの話題の番組になり、山城新伍の名も再び世間に轟いた。 その後も二人で数々の悪さもし、世の中と大喧嘩もしてきたがそのエピソードは俺が今、執筆中の俺の自伝に書き込むつもりなのでここでは割愛。 今日、新聞各紙を取り寄せたが、新伍さんの死亡記事は全紙バカの一つ覚えのように共同通信からの配信記事の垂れ流しで、すべて同じであった。 せめて親友だった梅宮さんや松方さんの談話くらい欲しかったよね、新伍ちゃん! じつは新伍さんは俺より年上であるが、出会いのときから「新伍ちゃん」と呼んでいた。 でも今日は各紙・各局いきなりの情報で間に合わなかったのだろう。 明日はきっときちんと大スター並みの報道をしてくれるはずだよ。 だから新伍ちゃんは白い馬にまたがって天空を飛びまわって、あの世ででかいツラしてる奴らをバッタバッタ斬りまくってくださいね。 ではさようなら・新伍ちゃん。
靖国の夏、今年も森の中は溢れんばかりの蝉の声だ。 この国の為に散華した人々が今年も靖国に帰って来た、蝉となって。 拝殿に二拝二拍一拝し、空を仰ぐ。 東京の空は涙を溜め込んだような厚い斑雲が北東に流れていた。 ボクは毎年8月に靖国神社に参拝するが決して思想的な感情からではない。 右翼思想を持つ友人も沢山いるが、極左翼の友人もいる。 ボク自身の思想は偏ってはいないと思っている。 純粋にこの国を想い、家族を守り、愛する人の為に散華していった英霊たちへの感謝の気持からなのだ。 彼ら、彼女らの自己犠牲があってこそ、今日のボクの命があるからだ。ボクの命は名も知らぬ人々の犠牲の元にあるのだから。 靖国では今、「矢弾丸尽きるとも、我レ生還ヲ期セズ」と言う催しをやっている。 若くして散華していった学徒たちと、その家族、友人たちの魂の記録展である。 ボクは彼らの遺品や写真の前で立ち止まり、心からの敬礼を捧げた。 まもなく15日が近付きマスコミや政治家が靖国参拝の是非をバカの一つ覚えのように騒ぎ出すだろう。 選挙運動のひとつに利用する輩も現れるに違いない。 靖国はそんな奴らの為にあるのではない。 純粋にこの国を憂い、国の誠を次世代に継承する人々の為にあるのだ。 万鳴の蝉時雨が今日も靖国神社の森に木霊していることだろう。
ちょうど今頃は、地裁に集合させられた73名の候補者から6名の裁判員と3名の補充裁判員の選任が行われているだろう。 こうして本日から4日間で結審させようというのだ。 今回の東京足立区で起きた殺傷事件では被害者の遺族も参加する「被害者参加制度」も合わせて行われる。 ところでこの裁判員制度に反対する人々が多いが、ボクもその1人である。 ただしボクの反対の根拠は司法の専門家の方々とは違う。 まずボクはこの日本では裁判員制度は絶対に馴染まないと思うのだ。 人を裁く裁判員や陪審員には必ず責任がある。 人が人を裁き、それが誤審、冤罪の場合、どう責任をとるのか? この場合、責任の放棄は出来ないのだ。 しかし、一神教の国の人々はそれが許される。 自分の行い・過ちを懺悔し神のお許しを得ればよいからだ。 だからキリストやイスラムなどの一神教の国々の人は、裁判に入る前にそれぞれの聖書をかざして神に誓うのだ。 裁判員や陪審員は神の名において行っているのだ。 だから判断が誤っても責任や自戒の念を回避できる。 しかし、ボクたち日本人は多神教である。 神と約束しようにも、神様が多すぎちゃって、どの神様が担当なのか分らないのである。 やおよろずの神の国、日本には絶対神がいないのである。 天皇は神ではなく、象徴になってしまった。 だから最後に天皇にすがりつく訳にはいかない。 日本には絶対神がいなくなってから、国民の心のボーダーラインが希薄になってしまった。 そこで近世になって中国の助けを借りて、孔子・孟子などにお出ましいただき論語を指針にしたりもした。 しかし、先の大戦で中国との仲もおかしくなり、論語を人生の指針にする人もすくなくなった。 多神教の日本人の心は今、漂流しているのである。 今、この国に必要なものは確かなリーダーであり、明確な国民のアイデンティティなのだ。 政治とはそれを考え作り出すことだと思うが、この国には国を憂う政治家など皆無である。 今月の選挙で保革が逆転しようとも、何も変わらないだろう。 こんなに国の基盤が確立していないのに、裁判員制度である。 この国がますます混乱して行く。 日本列島の大漂流時代である。
しかしボクは「自殺」と言うネガティブな言葉でのみ報道するマスコミの姿勢があまりにも短絡的で嫌いだ。 自らが自らの意思で命を収めることを「自殺」と言うのだろうか。 それが妥当とするのなら、人間の死には「自殺」と「他殺」しかないではないか。 では病院での死亡は「他殺」なのか? そんなばかなと言うのなら、ではなんと言うのだろう。 まず「自殺」と言う言い方が命の尊厳を踏みにじる言葉なのだ。 「自殺」なんて言い方は昔の文献にはなく、自害、自刃、自尽などと言っていた。 つまり命を納める方法によって、言い方の違いがあるわけで、ボクたちの国では死も文化なのである。 つまり「自死」なのであり、それ以外は「他死」なのだ。 「他死」の中に「他殺」も含まれると考えるべきである。 ボクは「自死」願望である。 自らの意思で己の命を収めることは決してネガティブ思考ではなく、むしろポジティブな生き方である。 死に方は自らの生き方なのだから・・・。 ボクは身近な人々にも「自死」をすると伝えてある。 絶対に「他死」は嫌なのだ。 実はこのような話を生前の阿久悠さんとよく議論していた。 阿久悠さんも自分のフィナーレは自らの意思で緞帳を降ろしたいと言っていた。 そして2年前の今日、夜明けが近いかわたれ時、阿久悠さんは人工呼吸器と点滴器具を着けたままベッドから下り、カーテンを開けた窓際のリクライニングチェアーに座って静かに鼓動を閉じていた。 「自殺」「他殺」『自死」『他死」・・・阿久悠さんの「死」はなんだったのだろう。 「病死」なんて言ういい加減な概念に当てはめるのはナンセンスだ。 阿久悠さんが命を収める三日前に、病室でボクに渡したメモがある。 彼はしばしばメモをボクに渡していたのである。 そこには筆圧を失った弱弱しいサインペンの文字で・・・ 「かわたれどき・逢魔が刻・・・」 と書いてあった。 阿久悠さんは何が言いたかったのだろう。 ボクは知っているが、今はまだ言いたくない。 阿久悠さんの三回忌の今日、ボクは独りで静かに過ごしている。
ボクが当初から担当させていただいていた公園の歌姫・歌手あさみちゆきさんの今秋のコンサートの演出を、今回は降りてくれと言うことだった。 言ってきたのは、あのメジャーなテイチクレコード。 理由は今回のコンサートの楽曲に阿久 悠さんの作品を使うにあたり、阿久悠さんを7年間看病し、その闘病記「勝手にしやがれ」を書いた著者のボクが気にいらないと言うのだ。 なんでレコード会社がそんな人権を無視した行動に出たのか? 不当な理由で仕事を取り上げるのは、完全に人権問題である。 ボクは今、「人権と報道・連絡会」のメンバーであるから、当然この問題はテーマとして追求させていただく。 それは今後のこととして、この問題には続きがある。 どう考えてもレコード会社がボクの著作「勝手にしやがれ」にクレームを付けるのは変ですよね。 調べたら、僕をコンサートの演出から引きずり下ろすことを、阿久悠作品をコンサートに使う許可の条件にしたのは阿久悠さんの音楽著作権を管理している某社であった。 某社がテイチクレコードに言わせたのです。 某社と言ったって、ボクのことを知っている方々なら某社がどこの会社かは明白でしょう。 そうボクが40年も所属していた、あの会社です。 ボクが阿久悠闘病記「勝手にしやがれ」を書いたことが気にいらないのです。 この本を読んでいただければ、お分かりですが ボクが阿久悠さんを人間として描いたことが許せないのでしょう。 なぜなら作詞家・阿久悠にまとわり付いている連中は、阿久悠をいつまでも作詞界の怪物として偶像化しておきたいのです。 そのほうが歌が売れて儲かると考えているのです。 音楽と言う文化を経済でしか考えられない連中です。 悲しいことです。 末期癌で苦しむ阿久悠さんはいつもボクに言っていました。 「おれは贅沢も嫌いな普通の人間なんだけどなぁ」とか 「病気になったら誰も来やしない」とか。 もっとも余命のカウントダウンになったら、どっと押し寄せてきた輩の貧しいツラのなんと醜かったことか・・・。 そんな奴らが今も阿久悠の楽曲権利を奪い合い、阿久悠さんを人間として書いたボクが許せないというのです。 弱肉強食の寒々しい社会を作ったのは自民党の腐敗政治だけではないのです。 日本の音楽と言う文化の現場でも、人間の優しい心を無視したケダモノたちが跋扈しているのです。 ボクは日本の子供達にこの国をキチンと引き渡すために、こう言う問題に目を瞑るつもりは毛頭ありません。 ただし、可愛いあさみちゆきさんとスタッフ、製作現場の人々に迷惑にならぬよう、コンサートの演出の仕事からは手を引きます。 残念ですが・・・。でも闘う相手が明確になって良かった。 あと2時間で8月1日…あすは阿久悠さんの三回忌です。 ぼくはなぜか呼ばれておりませんが、天に向かって一人で合掌します。
18年も無実を叫び続けて闘ってきた男の姿は垣間見えなかったのだ。 むしろ人間の尊厳も生きる力さえ抜き取られたような男の残像としかボクには感じられなかった。 ご自分が発言する時意外は、いつも下を向くか虚空に目を彷徨わせていた。 事件の概要や検察の取調べなどは、弁護士の佐藤博史さんが丁寧すぎるほど語ってくれたが、そんな時でも菅家さんは下を向き、目を閉じていた。 18年ぶりに出てきた社会も、菅家さんにとっては決して自由なんかではなく、毎日がマスコミや世間の人々に晒され拘束された日々なのだろう。 佐藤弁護士が無実の弁償にどう熱弁を振るっても、ボクはこの足利事件を云々する立場にはない。 そこまで事件の概要を知らないからだ。 しかし。冤罪被害の残酷さは痛感している。 三浦和義さんのご紹介もあり、多くの冤罪被害者の方々にお会いする機会を得たが、すべて無残な事件ばかりであり残酷な人生を抱えた人々である。 そしてその事件にはまた、被害者と言うもっと残酷な人生を背負わせられたご家族たちがいるのだ。 だからこそ冤罪を作りだしてはいけない。 その冤罪作りにマスコミが大きく加担している現況は異常である。 18年前、あれほど足利事件の菅家利和さんを鬼畜のように報道していたマスコミが今、確かな謝罪もなく英雄の如く扱っている。 背筋が凍りつくようなこの現実も、今こそ打破しなくてはならない。 小さな権力や金力を守ろうとする、心の貧しい人間達はまず、身近な人間を疑い、悪者に仕立て上げる。 冤罪の温床は日常のそんなところから出来上がるのだ。 冤罪を作り出す輩を絶対に許してはいけない。 冤罪は僕らの生活の中まで進入してきているのだ。
この二人には重大な接点が二つあります。 いつも目先の事件に追われ、俯瞰で世の中を見詰めることをしないマスコミやテレビキャスターや社会評論屋にはわからないだろうが…。 一つは両者とも全く不可解な死亡にも係わらず、警察や司法、マスメディアが踏み込んで調査しようとしないこと。 二つ目は両者の顧問弁護士が同じマーク・ゲラゴス弁護士だと言うこと。 三つ目は両者ともロサンゼルス郡検視局で司法解剖されたこと。 四つ目はその解剖結果に時間がかかり過ぎ、不信感を持たざるを得ないこと。 三浦和義さんの正確な結果データは八ヵ月後の現在もまだ知らされていない。 マイケル・ジャクソンさんのデータは5週間以上かかると発表された。三浦さんの時と同じで結局まだ情報提供されない。 五つ目は両者とも遺族がロス郡検視局を信頼出来ず、外部で独自のプライベート検視を行い、双方のデータを照らし合わせようとしていること。 今回、マイケル・ジャクソンの弁護団がこのような行動をとったことは三浦和義さんの事件が重要なモチベーションになっていることは疑う余地が無い。 ロス市警や検視局はとても信頼できないからだ。 三浦和義さんの件など、8ヵ月後の現在でも何の依頼調査資料も示されていない。 首を吊ったとされる二段ベッドやシャツなども情報提供されていないのだ。 和義さんの指にあった結婚指輪さえ奥様に戻ってはいない。 今回、マイケル・ジャクソンさんの死が明らかにされることにより、三浦和義さんの死も決して自殺なんかではなかった事実が明らかになることを念じている。 マスコミのみなさんにも是非、今回の事件の真実を見詰めて報道して頂きたいのだ。
傍聴席のみならず高裁前で待機していた数千人の支持者からは、この不当な判決に対する怒りの声が燃え上がり、渦巻いた。 これは天地神明にかけて明らかな冤罪なのだ。 …しかし… 今朝のテレビ・ラジオ・新聞などはこの「JR浦和電車区事件判決」を報道していない。 足利事件の菅家さんを大きく報道していても、JRの事件はどこも扱っていない。 足利事件の菅家さんを十数年前、鬼・畜生のように扱った報道各社の責任などないかのようなお祭り騒ぎである。 昨日の高裁の判決が報道されないのには理由がある。 なんと昨日の法廷には報道席が2席しか用意されていなかった。 これは見えない権力が、暗に作用しているのだ。 「この事件は報道するな」・・・と。 この事件は明らかに国家が介入している弾圧事件だと、俺は思う。 事件、そのものは実に他愛のない何処の職場にもごろごろしている様な出来事なのだ。 それが巨大な労働組合「JR東労組」内で起きたから問題なのだ。 今、国家の見えない力学は、資本家に対立する正規の労働組合を弾圧し粉砕しようとしている。 60年続いた資本主義に刃向かうものは潰す…これが見えない力であり 国家の力学である。 政権交代寸前の民主党に致命傷を突きつけた小沢一郎の秘書逮捕。 三浦和義さんの命をアメリカに売り渡した司法取引。 JR浦和電車区事件の控訴棄却。 これらは皆、国家権力が介入しているのだ。 戦後から今日まで、国家権力に対する市民の闘いは数限りなくある。 以前と違うのは報道の大多数が権力サイドに取り込まれていることである。 だから冤罪事件が次々に起こる。 冤罪事件に報道が加担している国が、他の先進国にあるだろうか。 俺達は北朝鮮を暗闇国家・独裁国家と非難出来るのだろうか。 北朝鮮のほうが権力がはっきり見えていて国民には分かり易いではないか。 俺達は羊の毛皮を纏った狼の国に住まわされているのだ。 こんなことを書く奴を反逆者だとか言うのだろう。 でも反逆なくして改革はない。 JR浦和電車区事件は、未来の祖国日本の繁栄の為に、それを担う子供たちの為に、俺たち大人が命を賭して正義を示すために闘わなければならないのだと思っている。 これは正義のなんであるかの戦さなのだ。 この事件の被告である美世志会の方々の支援を無実が証明されるまで続ける覚悟である。 [↓前の50件] [トップページへ戻る] |